富小路家(とみのこうじけ[1])は、藤原北家二条家庶流[1]の公家・華族だった家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家[2]。
歴史
戦国時代の文亀3年(1503年)九条家の諸大夫であった富小路俊通が、摂関家の二条家の庶流を称する形で従三位に昇ったことから始まる。俊通の子である資直が従三位となり昇殿を許されて以後、堂上家の一員となる。天文4年(1535年)に資直が(薨去)すると、戦国時代の後期から安土桃山時代にかけて公卿を出せずに終わるが、江戸時代に入ると慶長18年(1613年)(秀直)が従三位に叙せられ二代ぶりに公卿に昇った。江戸時代後期には(総直)・(政直)が正二位に叙せられている。
公家としての家格は半家[1]、(旧家)[1]。家業は和歌・俳諧・醫道・醫業。
江戸時代の家禄は200石[注釈 1]。屋敷は中筋東側[1]。菩提所は(松林院)[1]。
明治維新後の明治2年に公家と大名家が華族として統合されると富小路家も公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として敬直が子爵を授けられた[2]。
系譜
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の富小路家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち27石9斗8升4合3勺、山城国愛宕郡鹿ヶ谷村のうち50石、山城国愛宕郡千本廻りのうち11石3斗8升7合、山城国葛野郡西院領のうち2石3斗6升、山城国葛野郡壬生村のうち2石1斗、山城国葛野郡聚楽廻りのうち1石6斗5升2合、山城国乙訓郡石見上里村のうち100石であり、合計7村・195石4斗8升3合3勺。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[3]。
出典
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 富小路 トミノコウヂ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、4030頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。(全国書誌番号):(47004572) 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN (978-4820540342)。
系譜参考
- (日本語)
- - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分) (日本語)
- 世界帝王事典「富小路」 (日本語)
- 世界帝王事典「相楽」 (日本語)