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経歴[1]
1883年(明治16年)、山形県東田川郡下名川村(後の朝日村、現・鶴岡市)生まれ。荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)では阿部次郎と友人となる。父の転勤で阿部が転校すると、意気消沈したという。松嶺小学校の代用教員を1年間勤め、上京して第一高等学校入学。1909年(明治42年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、大学院に進む。在学中より岩波書店の『哲学叢書』編集に携わる。
東京農業大学、天台宗大学、東洋大学で講師となり、1920年(大正9年)に新潟高等学校講師に就任、教授となるが、1923~1925年(大正12~14年)、文部省在外研究員としてドイツのハイデルベルク大学、フライブルク大学で研究する。1927年(昭和2年)に京城帝国大学教授となり17年間勤務、その間法文学部長を務めた。1912年(明治45年)、母校の東京帝国大学に「カント哲学に於ける意識と対象」[2]を提出して文学博士号を取得。
1946年(昭和21年)2月、旧制武蔵高等学校校長に就任、新学制移行とともに武蔵大学学長、武蔵高等学校・中学校校長に就任した[3]。1956年(昭和31)年には武蔵大学を退任し、同年成城大学に招かれて文芸学部長、続いて学長、1958~1961年(昭和33年~36年)成城学園長を務めた。1967年(昭和42年)から北海道武蔵女子短期大学初代学長となった。
セツ夫人(安倍能成の妹)との間に2男。
著書
- 『哲学概論』岩波書店 1916年
- 『岩波哲学辞典』岩波書店 1922年
- 『カント研究』岩波書店 1941年
- CiNii著作(宮本和吉)