宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年) - 1970年(昭和45年)1月20日[1])は、日本の実業家。三井物産社長や、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。
人物・経歴
愛媛県今治市生まれ。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産入社[2][3]。1943年三井物産常務取締役。1944年から三井物産社長[4]。同年大正海上火災保険取締役[5]。第二次世界大戦後、三井財閥の解体にあたり、住井辰男三井本社筆頭常務理事らと、連合国軍総司令部との交渉にあたった[6]。1946年電気化学工業特別管理人[7]。三井物産解体後は、(白洋貿易)社長[8]、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた[2]。
脚注
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1205頁。
- ^ a b 「データベース『えひめの記憶』」愛媛県生涯学習センター
- ^ (杉岳志)「東京高商の修学旅行とその報告」一橋大学附属図書館研究開発室年報(1): 4-22
- ^ 三井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)渋沢社史データベース
- ^ 「大正海上火災保険(株)『大正海上火災保険株式会社四十年史』(1961.05)」渋沢社史データベース
- ^ 三井財閥の解体(前編)三井広報委員会
- ^ 電気化学工業(株)『電気化学工業株式会社三十五年史』(1952.03)渋沢社史データベース
- ^ 「戦後日本経済の混乱と改革」同志社大学
参考文献
- 三井物産編『人間宮崎清追悼録 : 三井の誇り』三井物産 1978年