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宝暦治水事件

宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、一説には工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。この工事で亡くなった人たちを祭るために、治水神社岐阜県海津市)が建立された。

宝暦治水当時の地形
大榑川洗堰跡
竹鼻別院にある幕府側の自害者竹中伝六喜伯の墓
宝暦治水碑
治水神社

宝暦治水

宝暦治水とは、江戸時代宝暦年間(1754年宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事である。濃尾平野の治水対策のため木曽川、長良川、揖斐川を分流する工事であり、三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に(合流)、(分流)を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。

通説では、木曽川地域には慶長13年(1608年)より幕府の主導により御囲堤と呼ばれる大規模な堤防が築かれていたが、この堤には軍事的な意味があったため、右岸地域である美濃国側では尾張藩の3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかったとされている[1]。ただし御囲堤の建造時期や規模には様々な議論があり、犬山から弥富までとする通説の建造地域は当時の流域と合わないことや、同時代史料に建造を示すものがないこと、3尺の制限が存在することを間接的にも証明するものがないことなどが指摘されている[2]。(原昭午)は尾張藩の史料から御囲堤の完成時期は寛政年間(1789年1801年[1]

1735年享保20年)、美濃郡代であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難のため幕府の許可が下りなかったとされる。この際に立案された計画が後に宝暦治水に利用されたといわれているが、確たる証拠はない。ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。幕府は1747年延享4年)に二本松藩主・丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。

時代が下るにつれて木曽三川流域は、土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。高木家文書では1741年寛保元年)から1745年延享2年)までの5年間で、流域244か村の損耗率が、8割以上の村が108か村、5割から7割が84か村、3割が52か村となっていたとしている[3]1753年宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。また、地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金を落とす方針を取った。工事は二期に分けられ、第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われた。一之手は旗本西高木家が奉行を務め、桑原輪中(岐阜県羽島市)から神明津輪中(愛知県稲沢市祖父江町)までで、木曽川と長良川を繋ぐ逆川(岐阜県羽島市)に木曽川から長良川への流入を阻む洗堰を設け、木曽川に猿尾堤を築く工事を含んだ。二之手は美濃郡代が奉行を務め、森津輪中(愛知県弥富市)から田代輪中(三重県桑名郡木曽岬町)を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われた。三之手は旗本東高木家が奉行となり墨俣輪中(岐阜県大垣市)から本阿弥輪中(岐阜県海津市)を担当として、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて長良川から揖斐川への流入を抑える工事を含む。四之手は旗本北高木家が奉行で金廻輪中(岐阜県海津市)から長島輪中(三重県桑名市)に至る地域を含み、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入を抑えることを狙った。

揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により、輪中同士および尾張藩との利害が対立し、また河川工学や土木工学が未発達だったこともあって、いずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。

1754年(宝暦4年)1月16日、薩摩藩は家老平田靱負に総奉行、大目付(伊集院十蔵)を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に充てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関する経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ、工事済みの部分が破壊されることもあった。さらに見試し工法[4]によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあり、当初予想されたよりも多額の費用が必要となった。

宝暦治水は設計、計画は幕府により行われる手伝普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行・(一色政沆)、監督者として(水行奉行)・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた(内藤十左衛門)を雇っている。

事件概要

当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日に幕府へ送った。

同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日大坂に到着した平田はその後も大坂に残り、工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年2月9日に美濃大牧(岐阜県養老郡養老町)に入った。工事は同年2月27日鍬入れ式を行い、着工した。

最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、それに対する抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが、平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側でも内藤十左衛門ら2名が自害している。地元の庄屋と揉め事を起こしたこと、幕府上層部の思惑に翻弄されたことなどが原因とされる。さらに人柱として1名が殺害された。

幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制し、さらに草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。ただし、経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは、当時は普通のことであった[5]

赤痢

1754年(宝暦4年)8月、薩摩工事方に赤痢が流行した。粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が感染し、33名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日に工事が完了し、幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日の5月25日早朝、美濃大牧の本小屋(大巻薩摩工事役館跡)で平田は割腹自殺した(異説あり。(平田靱負#自害か病死か)を参照)。辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」であった。

最終的に薩摩藩が要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、そのうちの22万298両が大坂の商人からの借入金であった。返済は領内で徴収した税から充てられることとなり、特に奄美群島サトウキビは収入源として重視されたため、薩摩藩は住民にサトウキビの栽培を強要し、過酷な収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

その後

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村におよんだ。ただし長良川上流域においては逆に、洪水が増加するという問題を残した。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。薩摩藩では治水事業が終了した後も管理のために現地に代官を派遣したが、後に彼らは尾張藩に組み込まれている。

その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。


宝暦治水の顕彰と研究

水害が頻発した1880~90年代より、多度村(現桑名市)の豪農(西田喜兵衛)による薩摩義士顕彰運動が盛んとなった[3]。1890年に発刊された『(治水雑誌)』創刊号では、薩摩藩士から大量の切腹者が出たが、これを病気という形で隠蔽したという記述が行われている[6]1900年明治33年)の分流工事完成時、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。1938年昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を「祭神」として顕彰するために「治水神社」(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。石碑には東郷平八郎の銘が入っている。1994年には鹿児島県薩摩義士顕彰会が『薩摩義士』の刊行を開始した[7]。2012年には中学校教科書に採用されている[3]

一方で、1900年頃の名森村村長はこの治水によって名森の周辺である森部輪中が大変な被害を受けたと述べており、この地域には薩摩義士に対する否定的な評価があったことが知られる[6]

2000年代頃からは宝暦治水の評価や、幕府と薩摩藩の対立であるといった構図を前提とする通説に対して疑問を示す研究も行われている[3]

影響

宝暦治水が縁による姉妹県盟約

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており[8][9]、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止めることにしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は、岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援にあたった。 1991年(平成3年)に岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約20周年を記念して鹿児島県木のカイコウズ岐阜県道56号線沿道に植栽され、「薩摩カイコウズ街道」の愛称が付されている。

宝暦治水が縁による姉妹都市

1963年(昭和38年)岐阜県大垣市と鹿児島県鹿児島市がフレンドリーシティ提携締結。 2011年(平成23年)には災害時相互応援協定を締結している。

1970年(昭和45年)岐阜県海津市と鹿児島県霧島市が友好提携を結んでいる。

関連作品

小説

  • 杉本苑子『(孤愁の岸)』 上下〈講談社文庫〉。  (ISBN 4-06-131745-8)、(ISBN 4-06-131746-6)
  • 岸武雄『千本松原』あかね書房ISBN (4-251-06384-8)。 
  • 豊田穣『(恩讐の川面)』(1984版)新潮社ISBN (4-10-315109-9)。 

漫画

アニメ映画

脚注

  1. ^ a b 秋山晶則 2012, p. 106.
  2. ^ 秋山晶則 2012, p. 106、110.
  3. ^ a b c d 秋山晶則 2013, p. 111.
  4. ^ 知野泰明, 大熊孝、木曽三川宝暦治水史料にみる「見試し」施工に関する研究『土木史研究』 2002年 22巻 p.49-60, doi:10.2208/journalhs1990.22.49。「見試し」は現在でもしばしば用いられる(例:RIVER FRONT Vol.8010「小さな自然再生」(“見試し”)の捉え方、岩瀬晴夫 (PDF)国土技術政策総合研究所 研究資料 規範事例集【河川編】 (PDF)
  5. ^ 「東高木家文書からみた「宝暦治水」」秋山晶則 、『名古屋大学附属図書館研究年報 3』2004年
  6. ^ a b 秋山晶則 2003, p. 56.
  7. ^ 秋山晶則 2013, p. 116.
  8. ^ 岐阜県:岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約締結 - 岐阜県、2016年1月13日閲覧。
  9. ^ 岐阜県 - 鹿児島県、2016年1月13日閲覧。

参考文献

  • (秋山晶則)「木曽三川流域治水史をめぐる諸問題 -治水の歴史と歴史意識-」『岐阜聖徳学園大学紀要. 教育学部編 = The annals of Gifu Shotoku Gakuen University. Faculty of Education』第52巻、岐阜聖徳学園大学、2013年、ISSN 13460889、NAID 110009555775。 
  • (秋山晶則)「木曽三川流域治水史再考」『名古屋大学附属図書館研究年報』第1巻、名古屋大学附属図書館研究開発室、2003年、doi:10.18999/annul.1.50、ISSN 1348687X、NAID 120000979219。 

関連項目

外部リンク

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