魏晋南北朝時代
古来は梁州の管轄地域であった。南朝梁により梁州から南梁州が分割された[1]。552年(廃帝元年)、西魏の王雄が南朝梁から(上津郡)と魏興郡を奪い、魏興郡の地に東梁州を置かれた。554年(廃帝3年)、東梁州は金州と改称された[2]。
隋代
隋初には、金州は3郡3県を管轄した。583年(開皇3年)、金州の属郡の魏興郡・(吉安郡)・(洵陽郡)が廃止された。605年(大業元年)、直州が廃止され、その管轄地域が金州に統合された。606年(大業2年)、上州が廃止され、その管轄地域が金州に統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、金州は西城郡と改称され、下部に6県を管轄した[3]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
618年(武徳元年)、唐により西城郡は金州と改められた。742年(天宝元年)、金州は安康郡と改称された。757年(至徳2載)、安康郡は漢南郡と改称された。758年(乾元元年)、漢南郡は金州の称にもどされた。金州は(山南西道)に属し、西城・洵陽・淯陽・石泉・漢陰・平利の6県を管轄した[4]。
宋代
967年(乾徳5年)、北宋により金州に昭化軍節度が置かれた。金州は(京西南路)に属し、西城・洵陽・石泉・漢陰・平利の5県を管轄した[5]。
元代
明代
1370年(洪武3年)、明により金州は漢中府に属した。1372年(洪武5年)、平利・石泉・洵陽の3県が金州に属した。後に漢陰・白河・紫陽の3県が加増された[7]。1583年(万暦11年)、甚大な洪水被害を受けた金州城は放棄され、旧城南方の趙台山山麓に新城を建築、現在の安康市漢浜区の基礎が築かれた。また新城への移転に際し金州は興安州と改称された。
清代以降
1782年(乾隆47年)、清により興安州は興安府に昇格した。興安府は陝西省に属し、安康・平利・石泉・洵陽・白河・紫陽の6県と漢陰庁を管轄した[8]。