この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、。 |
安宅丸(あたけまる)は、江戸時代初期に江戸幕府第三代将軍の徳川家光が向井将監に命じて新造した、軍船形式の御座船である。別名は天下丸。
建造地は伊豆の伊東、三島、相模の三浦、三崎と史料により異なっているが、信憑性の高い史料を見ると伊豆ないし伊東となっており、またウィリアム・アダムスによる洋式船建造も行われていることから伊豆ではないかと思われる[1]。建造年も史料によりさまざまだが、建造地の場合と同様に選別すると寛永9年6月25日(寛永8年とも)に建造命令、寛永11年9月28日に完成と思われる[2]。「安宅丸」は10月に江戸へ回航され、寛永12年6月2日に品川沖で家光が試乗した[3]。回航から試乗までの間には天守などの艤装が行われたと思われる[4]。「安宅丸」は深川沖に浮かべられていた[5]。慶安3年から約3年かけて修理が行われ、寛文2年には2回目の修理が行われた[6]。延宝6年にも修理が計画されたが、これは実施されずに終わった[7]。この時には修理担当者が1名大島に流罪となる事件が起こっている[7]。天和2年に「安宅丸」は解体された[7]。
「安宅丸」は上口長156尺5寸(47.4メートル)、竜骨長125尺(37.9メートル)、横幅53尺6寸(16.2メートル)、深さ11尺(3.3メートル)で、満載排水量は推定で約1700トン[8]。船体は全体が厚さ約3mmの銅板でおおわれており、これは船底は船喰虫対策、他は炮録(焼夷弾のようなもの)等による攻撃を想定した防火用と考えられる[9]。
全体は和洋折衷の船型で船首に長さ3間の(竜頭)を置き、、上部は安宅船に準じた日本式の軍船艤装を施し、2層の総櫓で船首側に2層の天守を備え、その巨大さから「日本一の御舟」[10]などと呼ばれ、江戸の名物の一つでもあった。外板の厚みは1尺もあり、当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であった。艪(ろ)数は2人掛りの100挺であった。
あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく、将軍の権威を示す以外にはほとんど機能しなかったとされる。これについては、「浅い喫水も併せて、江戸防衛の為の移動要塞としての任務が主なため」との意見もある。また、建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたという[11]。
維持費用が大きく、奢侈引き締め政策の影響[12]もあり、天和2年(1682年)に幕府によって解体された。以後は、関船系の「天地丸」が幕府の最大艦となった。
後年には、巨大さ・豪華さのために多くのテキストに記述されたが、ほとんどの場合に誇張や誤りがあり、『徳川実紀』ですら誤伝を採録している。また、「蔵の中で伊豆に帰りたがった」「解体後の板を穴蔵の蓋に用いていたが、それを安宅丸の魂がゆるさず召使いの女に憑いて主人を脅し蔵を作りかえさせた」などの民俗伝承も生まれた。
現代の東京湾では、外見を模した遊覧船「御座船安宅丸」が日の出桟橋発着で観光クルーズを行っていた。(現在は運行終了)排水量486トンで、全長は約50メートルである[13]。2021年10月より、神戸港での遊覧を行っている。
脚注
- ^ 「巨船安宅丸の研究」5-6ページ
- ^ 「巨船安宅丸の研究」6ページ
- ^ 『和船II』19ページ、「巨船安宅丸の研究」5ページ
- ^ 『和船II』19ページ
- ^ 「巨船安宅丸の研究」9ページ
- ^ 「巨船安宅丸の研究」9-10ページ
- ^ a b c 「巨船安宅丸の研究」10ページ
- ^ 『和船II』12ページ
- ^ 『和船II』14-15ページ、「巨船安宅丸の研究」45、58ページ
- ^ 『東海道名所記』
- ^ 石井謙治『日本の船を復元する』(学習研究社 2002年)
- ^ 『徳川実紀』には「古今比類なき大船なので、水主・揖取をはじめ関わる人は数百人いる、結果的に一年に十万石の税が必要といわれた。よって堀田正俊が、下々の奢侈を禁止するためにも、まずお上が無駄な費用を省くべきであると建議し、解体に至った」とある。
- ^ 【各駅停話】ゆりかもめ(13)日の出/新生 家光の「天下丸」『朝日新聞』夕刊2018年11月29日(社会面)2018年12月4日閲覧。
参考文献
関連項目
- 御座船
- 安宅船
- 東京都観光汽船 - 御座船「安宅丸」を観光船として運航(両備ホールディングス所有の「備州」を借受・改名)