概要
築城年代は定かではないが(宇津氏)によって築かれたと伝わる。
宇津氏は、南北朝時代初期の婆娑羅大名[1]であった美濃国長森城主土岐氏の末裔で、宇津郷を領した(宇津頼顕)が丹波国桑田郡宇津荘(現在の京都市右京区)を本拠とした国人として住んだことに始まると伝わる[2][3]。
宇津氏は頼顕の後、(頼夏)、(頼高)、頼重と続くが、天正7年(1579年)織田信長の部将明智光秀によって攻められ落城、宇津氏は滅亡したという。
沿革
文明2年(1470年)(宇津嶽山城)主が(宇津頼夏)と伝えられており、宇津氏の初期居城は(宇津嶽山城)で、(宇津頼高)の頃に宇津嶽山城を支城に変更、宇津城を築城し居城としたと考えられている。
両細川の乱では細川高国に属し[4]、高国を破った細川晴元と三好長慶が対立すると晴元方に付いた[5]。また、(禁裏御料)である山国荘を押領しており、度々違乱停止を命じられている[2]。
天文21年(1551年)に京都を追われた細川晴元は、その年、若狭を経て宇津に入り[6]、一時宇津を本拠とした[7]。
永禄5年(1562年)、晴元が三好長慶に降伏しているが、宇津氏はその後も反三好方として活動し[7]、永禄6年(1563年)、(柳本氏)や(薬師寺氏)、(長塩氏)らと共に京都へ攻め入り、三好政権へ火を放っている[7][8]。
永禄5年(1562年)、宇津氏の当主として宇津長成の名が見え始める[7]。
永禄7年(1564年)、長成は子の虎千代と山国荘荘官・鳥居河内守の娘との間で婚姻を結び、山国荘への支配を強めた[9]。この頃、三好長慶に丹波を任された内藤宗勝の被官・小林日向守との間で小競り合いを繰り返している[10][11]。
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じた織田信長が上洛し、翌12年(1569年)、長成は信長から山国荘の違乱停止を求められた[12]。 信長と義昭が対立するようになると長成は義昭方に付き、元亀4年(1573年)2月、丹波や摂津の国衆らとともに上洛[2]、万一の時の宇津への動座に備え[13]、御供衆に加えられた[12]。
同年に義昭が追放された後も長成は信長への敵対姿勢を続け、天正3年(1575年)6月、信長は宇津氏や(内藤氏)を攻めるため明智光秀を丹波に派遣した[14]。 同年7月、光秀は宇津攻めのための参陣を小畠永明に命じているが[15]、8月には越前一向一揆攻めに出陣しており、光秀自身による宇津氏への攻撃はこの時はなかったとみられる[16]。またこの年、鳥居氏との間で結ばれていた婚姻契約が(宇津長久)によって破棄された[13]。
天正7年(1579年)7月19日、宇津城は光秀の軍勢に攻められ落城[12]。 宇津氏(長成か)が若狭方面に逃れたとされ、丹羽長秀がその捜索を命じられているが[12]、その後捕縛されたかどうかについては分かっていない[2]。 同年、朝廷による山国荘の直務支配が回復したとして、朝廷から明智光秀に恩賞と織田信長に御礼の勅使が遣わされた[17][18]。
遺構
北から南へ張り出した尾根の南端頂部を主郭とし、北に二段の曲輪、南に東西二つの腰曲輪を設けている。
主郭の北端には土塁、東側面に石積が残り、南には石積されたスロープが腰曲輪に通じる。 北尾根は鞍部を利用し、両側を削り落としたような形で不明瞭な堀切になっている。 南東尾根にも堀切が残っている。
アクセス
自動車
国道162号を京都市内から北へ…約40分 周山から宇津方面へ
バス
参考文献
関連項目
外部リンク
- 丹波 宇津城
脚注
注釈
出典
- ^ "土岐頼遠". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2021年9月28日閲覧。
- ^ a b c d 谷口 2010, p. 86.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、215–216頁。
- ^ 高橋 2017, p. 155.
- ^ 高橋 2017, p. 156.
- ^ 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年、109–110頁。ISBN (978-4-642-06321-0)。
- ^ a b c d 高橋 2017, p. 157.
- ^ 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社〈中世から近世へ〉、2018年、165頁。ISBN (978-4-582-47739-9)。
- ^ 高橋 2017, pp. 157–158.
- ^ 高橋 2017, p. 158.
- ^ 高橋成計 著「松永長頼(内藤宗勝)と丹波」、天野忠幸 編『松永久秀』宮帯出版社、2017年、57–58頁。ISBN (978-4-8016-0057-7)。
- ^ a b c d 谷口 2010, p. 86; 高橋 2017, p. 159.
- ^ a b 高橋 2017, p. 159.
- ^ 高橋 2017, p. 159; 福島 2020, p. 74.
- ^ 高橋 2017, p. 159; 福島 2020, p. 75.
- ^ 高橋 2017, p. 159; 福島 2020, p. 76.
- ^ 『御湯殿上日記』天正7年7月24日条、9月14日条。
- ^ 京都府北桑田郡 1923, pp. 88–89.
- ^ 高橋 2017, p. 170.