宇喜多 秀高(うきた ひでたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。宇喜多秀家の嫡男。母は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女の豪姫。官位は従四位下侍従。別名は秀隆[1]。
生涯
天正19年(1591年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の嫡男として生まれる。通称は孫九郎。
慶長2年(1597年)、従四位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。
慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流される。その後、百姓になり、八丈島奉行(奥山忠久)(縫殿助)の娘を娶る。母の実家加賀より毎年米70俵金70両を贈られ、それを流罪になった同族らで分配していた。
脚注
参考文献
- 岡山市 編「国立国会図書館デジタルコレクション 宇喜多秀家史料」『岡山市史. 第2』岡山市、1922年 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、40-41頁。