生涯
慶長4年(1599年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の次男として生まれる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流され、明暦3年(1657年)3月6日に病死。享年60。
秀継には3児あり、長男・秀律(半助)[1]、長女・マツ[2]、次男・藤松[3]。
その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である(浮田秀典)(半平)は、(八重根)に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている[4]。