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モウソウチク(孟宗竹)はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種である。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。
モウソウチク |
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分類(APG IV) |
学名 |
Phyllostachys heterocycla f. pubescens |
シノニム |
Phyllostachys edulis |
和名 |
モウソウチク(孟宗竹) |
英名 |
Moso bamboo |
品種 |
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日本のタケ類の中で最大で、高さ25メートルに達するものもある。葉の長さは4 - 8センチメートルで、竹の大きさの割には短い。枝先に8枚ほどまで付き、裏面基部にはわずかに毛がある。春に黄葉して新しい葉に入れ替わる。竹の幹は生長を終えると、木のように太くならずに、枝が毎年枝分かれしながら先へ伸びる。木での年輪の代わりにこの節数を数えるとその竹の年齢を判定できる。年を経ると
日本国内への移入
中国江南地方原産で日本では栽培により北海道函館以南に広く分布する。801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った、また1228年(安貞2年)に曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説あるが全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると元文元年3月に島津吉貴が、琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入し、元文3年に帰国すると吉貴のいる仙巌園に孟宗竹を献上したという。植栽された竹林は、戦後の里山管理の衰退に伴い、放置されていたり逸出していたりして、生育域は拡大する傾向にある。
利用
タケノコは4月頃に地下茎から発芽する。このタケノコは大型で肉厚で柔らかく、えぐみが少ないため食用に供される。湿潤で粘土質の竹林では良質のタケノコが採れる[1]。
一方、マダケに比べ完密度や材質の脆さなどがあり表面の緻密さも劣る[1]。それでも(花器)、ざる、かご、すだれ、箸の他、鉄製品やプラスチック製品が普及するまでは建築材料、農業資材、漁業資材などとしても用いられてきた。2000年代以降、野球で使用されるバットの原材料としての利用も盛んとなっている。
このように手軽に使用できることから、各地で農家の裏や耕作地の周辺などに植栽され、竹林として維持・管理されてきた。
竹林の増加
戦後の竹材需要の減少に加え、20世紀最末期になって以降は中国産の安価なタケノコの輸入が増えて市場価格が下落したため、日本国内の竹林は放置傾向にある。それによって引き起こされたモウソウチクの他植生への侵入によって、広葉樹の生長が阻害され枯死することが判明している。さらに、他の樹種の影響をうけにくい杉でさえもモウソウチクの特性(3ヶ月で最大まで生長する。柔軟なので風が吹く度にしなってスギへ当たる)により生長が妨げられ、放置されたスギ林へもモウソウチクがよく侵入して群落を拡大している。[2]
放置された竹林は、密になって荒れると同時に、周囲の放置されている里山や休耕田などに広がる。中には山の斜面全体が竹林と化した場所も見られるようになって、環境保全上の問題となっている。竹林内は落葉がたまることや、やや薄暗いことから、植物相は多様度が低く単調となり貧しいが、その地域の常緑樹のなかではアオキ、ヒサカキ、シラカシ、チャノキ、ツバキなどがよく共存している。また、倒れた稈や切り株などの節間の空隙には雨水がたまりやすく、ヒトスジシマカや(キンパラナガハシカ)のようなヤブカ類の好適な発生源となるため、管理放棄された竹林に接近、侵入すると、多大な蚊の被害を受けることになる。
耐用年数
平成20年度税制改正において、法人税等の「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば平成20年4月1日以後開始する事業年度にかかるモウソウチクの法定耐用年数は20年となった。
出典
参考文献
- 八尾弥太郎 著 『石川の竹』 北国出版社、1975年、(全国書誌番号):(70001238)。
- 橋詰隼人、中田銀佐久、新里孝和、染郷正孝、滝川貞夫、内川悦三 著 『図説 実用樹木学』 朝倉書店、1993年、ISBN (4-254-47021-5)。