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奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年(明治36年)5月15日 - 1989年(平成元年)12月22日[1])は、日本の内務官僚、政治家。奈良県知事(1951年~1980年)・官選群馬県知事(1947年)・全国知事会(1976年~1980年)。
経歴
生駒郡筒井村(現・大和郡山市筒井町)の地主の家に生まれる。郡山中学(現奈良県立郡山高等学校)・第三高等学校を経て東京大学法学部政治学科を卒業し、1927年内務省入省、全国各地の県庁で部長や官選最後の群馬県知事、福岡県副知事を歴任した。
1951年に郷里奈良県の第二回公選知事選挙に天理教真柱の中山正善や大和タイムス(現・奈良新聞)社長だった今西丈司らに擁立され出馬、前知事の野村萬作を破って奈良県知事に初当選を果たした。この時、副知事に三高・東大の同級生であった下位真一郎(在任24年)、出納長に県警出身の西上菊雄(在任20年)を登用している。
奥田県政が8期29年の長期にわたって存続できたのは、当初保守・革新層や天理教など幅広い政治基盤があったためと見られる。また在任期間は日本の高度経済成長期にわたり、県勢は飛躍的に躍進した。1989年12月22日死去。享年87。
脚注
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、289頁。