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天王寺・岡山の戦い

天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)は、慶長20年(1615年)の(大坂夏の陣)における戦いである。幕府方の総大将、家康・秀忠がそれぞれ天王寺口・岡山口に陣取り、豊臣方も両者を討ち取る行動を行ったため、上記の呼称が採られている。ただし豊臣方の前線大将は茶臼山・天王寺・岡山にそれぞれ展開し、幕府方もこれに対応した配陣を行ったため、主戦場はこの三つに区分される。

天王寺・岡山の戦い

夏の陣(天王寺・岡山の戦い)布陣図 (拡大)
戦争大坂の陣・大坂夏の陣
年月日慶長20年5月7日1615年6月3日
場所摂津国東成郡大坂城南方
結果:幕府軍の勝利
交戦勢力
江戸幕府 豊臣軍
指導者・指揮官
茶臼山:

先鋒大将:松平忠直
大和口勢

一番手大将:水野勝成
二番手大将:本多忠政
三番手大将: 松平忠明
四番手大将: 伊達政宗
五番手大将: 松平忠輝

後詰: 浅野長晟
天王寺口:
先鋒大将:本多忠朝 
二番手大将:榊原康勝
三番手大将:酒井家次
本陣: 徳川家康
後詰: 徳川義直徳川頼宣
岡山口:
先鋒大将: 前田利常
二番手大将:藤堂高虎井伊直孝
本陣: 徳川秀忠

茶臼山:

大将: 真田信繁 
天王寺口:
大将:毛利勝永
岡山口:
大将:大野治房
別働隊:
明石全登
後詰:
大将:大野治長七手組
城内
本陣:豊臣秀頼長宗我部盛親

戦力
約150,000 約50,000
損害
首約15,000
大坂の陣

両軍の布陣

5月7日6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布いた。幕府方の軍勢は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始した。

豊臣方

茶臼山真田信繁(幸村)を大将に、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、茶臼山前方に信繁寄騎渡辺糺大谷吉治伊木遠雄ら兵2,000、茶臼山西に福島正守福島正鎮石川康勝、(篠原忠照)、浅井長房ら兵2,500、茶臼山東に江原高次、(槇島重利)、細川興秋(兵数不明)、

天王寺口は四天王寺南門前には毛利勝永を大将として、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。

岡山口は大野治房を大将に新宮行朝岡部則綱らが、後詰に御宿政友山川賢信北川宣勝ら計4,600が布陣した。なお、『日本戦史』を基にした上記の地図では岡山口の諸隊は篠山付近に展開しているが、この場合は茶臼山からの前線が斜めに長く伸び兵数に劣る豊臣方に不利となる。このため前線が狭くなる岡山付近に展開したと見るのが適当である。

茶臼山北西の木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。

幕府方

茶臼山には、前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆けをして大和路勢前方に展開し真田勢と対峙した。

天王寺口は、先鋒に本多忠朝を大将とした秋田実季浅野長重松下重綱真田信吉六郷政乗植村泰勝ら計5,500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政仙石忠政諏訪忠恒保科正光丹羽長重ら計5,400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長松平忠良松平成重松平信吉内藤忠興水谷勝隆稲垣重綱六郷政乗松平成重ら計5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直(15,000)、徳川頼宣(家康本陣と同一か?)が本陣後備として布陣した。

岡山口は先鋒大将は前田利常本多康俊本多康紀片桐且元ら計20,000。二番手は井伊直孝藤堂高虎勢計7,500と細川忠興(兵数不明)。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。一説には一番手と二番手の間に黒田長政加藤嘉明(兵数不明)が参陣していたといわれるが詳細不明[1]。なお開戦前に前田隊と井伊隊の間に間隙があるとして、秀忠が本陣から大番1組(高木正次組)・書院番2組(青山忠俊組・水野忠清組)を抽出して展開させた。

豊臣方の作戦

軍記には豊臣方はこの決戦にあたり、以下の作戦を採ったとある。

  1. 敵を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、誘引されてきた敵を攻撃する。
  2. 敵の陣形が伸びきって本陣が手薄になったところで、別働隊の明石全登を迂回して家康本陣に突入させ(あるいは別働隊が敵本陣の背後にまわったところで狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟撃し)、家康を討ち取る。
また、豊臣秀頼に出馬を請い、全軍の士気を高めようとした。

一方で、合戦当日に岡山口主将大野治房へ発した軍令状には次の記述がある。

  1. 他の主将真田信繁・毛利勝永との合意に基づき、即時の戦闘・抜け駆けを禁じる。
  2. 茶臼山から岡山の間からの出戦を禁じ、違反したら即成敗する
  3. 前日の戦闘も遠方へ出陣したため不覚を取った。
  4. 今日の合戦は一大事、天下分け目の戦いなので治房一人が戦功を立てても意味がないので、軍法を固く守れ。

天王寺口の戦い

正午頃、豊臣方大将毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将本多忠朝勢を銃撃した。これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩[2]勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等の備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等の備はその後、丹羽長重隊に突撃した、丹羽長重隊の老兵秀重の備は「の戦で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。

二番手大将榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ三番手大将酒井家次以下も同様の事態に陥ったことで、家康本陣は無防備となった。

真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。

これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。3里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。

信繁は安居神社で休息をとっていたところ[3]を松平忠直勢に討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退した。

別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。

岡山口の戦い

徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃命令を出した。立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった[4]。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。秀忠自身がを手に取り戦おうとするのを、本多正信が大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はないと諫め止めたという。

黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した[4]。旗奉行三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。

大野治房は、敗兵を収容しつつ城内に撤退した。

この間、後詰大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康、秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。

分析

 
一心寺にある本多忠朝の墓所

この合戦において徳川方が苦戦したのは勝敗の帰趨を制するといわれる先鋒戦で徳川方が毛利勢に敗戦した為で、これは徳川方が包囲等の兵力の優位を生かした作戦を行えず、前線ではほぼ同数の戦闘であった事、そして豊臣方が野戦築城を構築し、そこへ徳川方が攻め寄せるという長篠の戦い関ヶ原の戦いと同様の形態が行われた結果、徳川方先鋒は崩れ、そこに豊臣方が突撃したという流れが考えられている。

他にも小田原征伐文禄・慶長の役などでも経験がないほどの野戦一箇所での大軍密集によって、徳川軍に統率・機動の混乱がみられたことがあった上、冬の陣から間を置かぬ再度の動員での財政逼迫を懸念した家康が早期決戦を急いだ事が挙げられる。無論、豊臣方の完全に後が無い事による背水の陣ともいえる奮戦振りも、ここまで徳川方が苦戦した理由の一つに数えられる。家康の合戦の中で、人的被害(討死)が一隊の将にまで及んだのもこの合戦のみである。

一方で、豊臣方も軍令状にあった抜け駆けや出戦を禁じる軍法を無視して緒戦から突撃しており、これが徳川方の消耗不十分、秀頼麾下の後詰投入機会の喪失を招いた。この場合は上記の淀殿説得は関係なく、豊臣方前線部隊の独断専行が後詰投入失敗の原因となる。

なお本合戦は正午の開戦から大坂方が総崩れしたのが15時頃というわずかな間であり、それだけ短時間で激しい戦いが行なわれていたことを物語っている(大坂城が炎上したのは16時頃)。この戦闘時間の短さも豊臣方の後詰投入が失敗した一因と言える。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 黒田長政が描かせたという「大坂夏の陣屏風」から参陣していたのは間違いないと思われる
  2. ^ 忠脩は松本城守備の命に背いての無断参戦だったが、家康から特に黙認されていた
  3. ^ 近年発見された新史料(『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』、『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台とされる。(丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015、pp.251-252)
  4. ^ a b 『日本戦史・大坂役』(補伝 第二百三十一 宗茂の獻策)[1]
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