大窪 太兵衛(おおくぼ たへえ)は、江戸時代後期の尾張藩士。本草学を好み、文化頃同好者と定期的に開いた集会は後に嘗百社に発展し、養子大窪昌章、孫大窪安治と3代に渡って活動に関わった。号の薜茘庵は3代に渡って用いられ、また通称太兵衛は孫安治も名乗っている[2]。
生涯
旧姓は山本[3]。大久保多四郎の養子となり、天明2年(1782年)6月17日跡目を継ぎ、馬廻組、10人扶持となった[3]。天明4年(1784年)5月苗字を大窪、天明8年(1788年)1月19日通称を多九郎と改めた[3]。
寛政元年(1789年)5月4日松平勝長[1]側詰として悦之助の世話を命じられたが、9月13日馬廻組に戻り、寛政5年(1793年)1月19日寄合組に転じた[3]。寛政7年(1795年)12月27日太兵衛と改名した[3]。
文化頃浅野春道、水谷豊文、(岡林清達)、(柴田洞元)、西山玄道、(浅野文達)、大河内存真等と本草会を開くようになったが、その後毎月7日は各人宅、17日は太兵衛宅が開催地とされた[4]。
文政7年(1824年)2月18日死去し、中区梅川町長栄寺に葬られた[1]。太兵衛等による集会は吉田雀巣庵、大窪昌章、伊藤圭介、(神谷三園)等を加えて博物会等の活動に発展し、文政10年(1827年)頃存真により嘗百社と名付けられた[4]。