略歴
元文2年(1737年)8月14日、尾張藩藩主・徳川宗勝の六男として江戸で誕生した[注 1][2][1]。母は嘉代(英巌院)[2][1]。幼名は勇之助[2]。
寛延元年(1748年)7月1日、父・宗勝の一字をとり、勝長と名乗る[2]。同年9月15日、将軍家重に初めて御目見する[2]。同年12月21日、従四位下左近衛権少将に任じられ、掃部頭を称した[2]。
(岩井正斎)に絵を学んだ[1]。
安永6年(1777年)11月7日、長男・悦之助が誕生した[2]。母は留代(木造重愛の娘)[2]。寛政4年(1793年)2月1日、9代藩主・徳川宗睦から一字をとり、睦英と名乗る[2]。同年6月9日、尾張で死去した[2]。
寛政5年(1793年)9月20日、二男・勇丸が誕生した[3]。母は松平忠左衛門の娘[4]。同6年(1794年)11月9日、宗睦の養子となる[4]。同7年(1795年)9月20日、尾張で死去した[5]。
文化8年(1811年)9月13日、尾張で死去した[2][1]。77歳[1]。相応寺に葬られた[1]。法号は亮諦院住誉心覚全超[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク
- 『(松平勝長)』 - コトバンク