清和源氏 > 大和源氏
勃興から平安末期まで
頼親は大和国の国司となり同国に勢力を拡大、その過程で興福寺などの南都(奈良の寺院)勢力と武力衝突を起こして流罪となった。しかしその子孫は大和一円に広がり、引き続き南都勢力との抗争を繰り返しながら土着傾向を強めていった。中には頼親から五代後の僧信実のように、宿敵であるはずの興福寺の上座となって南都勢力と同化し、同族の大和源氏と抗争する者までも出現した。
信実の好敵手であった源親治(宇野親治、同じく頼親から五代後)は、保元元年(1156年)の保元の乱において崇徳上皇方についたため捕虜となるが、南都勢力の伸張を牽制したい後白河天皇の深謀遠慮により、罪を赦されて帰郷を果たしている。降って治承4年(1180年)に源頼政が以仁王と語らって挙兵した際には、決起を促す諸国の源氏の一群の中に親治とその子達の名前が見え、なおも国内に一勢力を保っていたことが窺える。
その後の動向
しかし治承・寿永の乱において目立った活躍がなかった大和源氏は、これ以降は地方豪族の域を出ることができず、中世を通じて次第に纏まりを失い、諸国に拡散していった。上述の親治にはじまる大和国の(宇野氏)(この子孫に江戸時代後期の韮山代官・江川英龍がいる)をはじめ、織田信雄に仕えた土方雄久の土方氏、肥後国の隈部氏、陸奥国の石川氏、三河国の高木氏、楠木正成を討ち取ったとされる伊予の大森彦七の(伊予大森氏)などが大和源氏の末裔を称している。