生涯
大内義隆の嫡男で、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいであるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]。
天文16年(1547年)2月17日には3歳にして従五位下 周防介に叙任される[5][1][6]。新介と称した[1]。 陶晴賢が義隆に対する謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立が決められていたが、この義尊の実子か否かの問題のために晴賢は計画を変更して義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]。
天文20年(1551年)8月29日、晴賢が謀反を起こすと、父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし幼児ながらも謀反に動揺せず立派な態度を見せたと伝わる[註 1]。
天文20年(1551年)9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[7]、翌日には約束を反故にされて義尊は殺害された[5][7](大寧寺の変)。享年7歳[8][4][9][10][11][6][註 2][註 3]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[12]。また翌年大内義尊の弟の大内歓寿丸も捕らえられ、同じ場所で殺されている[12]。
「麻羅観音」も参照
関連作品
テレビドラマ
脚注
注釈
出典
参考文献
- 書籍
- (近藤清石)『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345。 (NDLJP):780384
- 福尾猛市郎 著、日本歴史学会 編『大内義隆』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1989年10月。ISBN (4642051732)。 NCID BN03823762。(全国書誌番号):(89061490)。
- 史料
- 『大内系図』
- 『大内義隆記』
- 『言延覚書』
- 『相良家文書』
- 『大寧寺過去帳』
- 『中国治乱記』
- 『房顕記』
- 『歴名土代』
関連項目
外部リンク
- “摩羅観音”. 長門市経済観光部観光課. 2017年1月13日閲覧。