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人物
京都府京都市出身。旧制高知高等学校を経て大阪帝国大学医学部を卒業し、太平洋戦争では海軍軍医として作戦に参加した。戦後に、1942年2月のシンガポール華僑粛清事件について国会で発言している[1]。日本医師連盟公認での衆院選出馬、落選を経て、1958年、第28回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から出馬して初当選し、以後11回当選した。社会党内では右派の系譜に属し、武藤山治、佐藤観樹と「堀グループ」を形成した。
西欧の社会民主主義を手本に、教条的なマルクス・レーニン主義からの変節を求めた。また、衆議院(大蔵委員会)の委員を長く務め、社会党きっての財政通として知られた。党政策審議会長、党副委員長などを歴任した。
1990年の衆院選は無所属で立候補し、11回目の当選を果たす。1993年の衆院選は出馬せず、政界引退した。
脚注
- ^ 「第1類第5号 第55回国会衆議院 大蔵委員会議録第10号」昭和42年5月10日、3頁。
党職 | ||
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先代 北山愛郎 | 日本社会党政策審議会長 第9代 : 1972年 - 1977年 | 次代 武藤山治 |