坪井 東(つぼい はじめ、1915年(大正4年)5月1日 ‐ 1996年(平成8年)7月5日[1])は日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、不動産協会理事長等の公職も務めた。
人物
千葉県市川市生まれ[1]。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。また大学同窓の森泰吉郎に(森ビル創業者)にビル事業を教えた[2]。
1938年に三井合名に入社。その後財閥解体に伴い、中川海運(後の照国海運)に転じ、取締役総務部長に就任した[3]。江戸英雄が三井本社から三井不動産に転出後、中川海運が業態悪化したことを機に、江戸が中川海運社長の反対を押し切り、三井に復帰させ、1949年三井不動産入社[4]。爾来ビル部門を除く埋め立て事業、宅地造成、住宅部門を担当する[3]。
1974年江戸から後任として推挙され社長に就任し[5]、不動産流通事業を立ち上げたほか、臨海工業地帯の埋め立て、超高層ビル建設などの事業をすすめた。またツーバイフォー工法を導入し、日本初のツーバイフォーの住宅会社・三井ホームを設立。日本ツーバイフォー建築協会初代会長を務め[6]、1998年に同会が「坪井賞」が創設した[6]。さらに東京ディズニーランドの開園事業にも携わるが、合理的な坪井は本心としてはディズニーランドのような水もののレジャー事業には大変消極的だった[7][8]。
1982年の三越事件では、9月17日、三井グループの社長会二木会代表だった坪井と八尋俊邦三井物産社長が、三越のイメージ低下が三井グループに及ぼす影響を危惧して記者会見を行い、三井グループの総意として、岡田茂三越社長の退陣を求める声明文を発表した[9]。
1987年会長[10]、1996年取締役相談役。
論客として知られ、1990年4月から不動産協会理事長を務め、不動産不況からの脱却を目指し、不動産流動化などについて、政治家や官僚との交渉の矢面にたった[11]。
もともと冠動脈が弱く、健康のため水泳をしていたが、都内のホテルのプールで泳いでいたときに身体の不調を訴え、1996年7月5日、東京都渋谷区の病院で死去、享年81。葬儀は港区芝公園の増上寺で営まれ、宮沢喜一(元首相)、平岩外四(元経団連会長)、八尋ら3500人あまりが参列した[12]。
略歴
- 東京府立第三中學校卒業。
- 1938年 旧制東京商科大学卒業、三井合名入社。
- 1974年 三井不動産社長。
- 1987年 三井不動産会長。
- 1990年 不動産協会理事長。
- 1996年 三井不動産取締役相談役。
- 1996年7月5日 死去。
脚注
- ^ a b “坪井東三井不動産前会長死去”. 千葉日報 (千葉日報社): pp. 朝刊 1. (1996年7月7日)
- ^ 日本経済新聞 1996/07/12
- ^ a b 私の履歴書 経済人 18 1981, p. 447.
- ^ 日本経済新聞 1988/05/13
- ^ 私の履歴書 経済人 18 1981, p. 446.
- ^ a b 日経産業新聞 1998/01/13
- ^ 江戸英雄 1994, p. 220 - 221.
- ^ 日本経済新聞 1996/07/06、日経産業新聞 1996/08/09
- ^ 菊地浩之 2019, p. 130 - 131.
- ^ 江戸英雄 1994, p. 212.
- ^ 日本経済新聞 1996/07/07
- ^ 日経産業新聞 1996/08/09
参考文献
- 安井正義、伊藤伝三、川井三郎、北裏喜一郎、安藤豊禄、江戸英雄『私の履歴書 経済人 18』日本経済新聞社、1981年2月。ISBN (978-4532030681)。
- 江戸英雄『三井と歩んだ70年』朝日文庫、1994年7月。ISBN (978-4022610270)。
- 菊地浩之『最新版 日本の15大財閥』角川新書、2019年3月。ISBN (978-4040822587)。
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