五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日(元治元年12月14日) - 1910年(明治43年)9月10日は、日本の歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌。
経歴
出生
元治元年12月14日(1865年1月11日)[1]、三河国の東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉[1]の次男として生まれた[2][3]。本名は鉄三郎[2][3]。母は碧海郡東境村の(泉正寺)の生まれである[2][3]。
歌舞伎役者として
理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた[1]。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った[1]。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった[1]。
1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた[3]。十二代目守田勘彌に見初められ、25歳の時に[1]五代目坂東蓑助を襲名した[2][3]。1897年(明治30年)に十二代目守田勘彌が急死した後には不遇をかこった[3]。
故郷凱旋と死去
1909年(明治42年)8月には郷土の碧海郡知立町にある東雲座(後の知立劇場)の公演に出演した[2]。「郷土のうんだ名優蓑助きたる」などとして大変な騒ぎになったとされる[1]。9月には碧海郡刈谷町の大生座(だいしょうざ)の公演に出演したが、持病のリウマチが悪化して入院した[1]。9月10日には心臓麻痺を併発して死去した[1]。