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生涯
安永7年(1778年)5月7日、第6代藩主・土方雄端の三男・(木下俊直)の次男として、江戸愛宕下の菰野藩上屋敷で生まれる。父が豊後日出藩木下氏分家の5000石の旗本家の養子になるとそれに従う。天明2年(1782年)12月19日、菰野藩で第8代藩主・雄貞(権勢を誇った田沼意次の子であり、土方家の養子)の死去により、その末期養子として家督を継いだ。ただし幼少のため、藩政は隠居していた第7代藩主で伯父の雄年によって執り行なわれた。田沼家との血縁は、義苗の室に田沼意知の養女(意次の甥田沼意致の女)を迎えることで維持された[1]。寛政8年(1796年)8月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月19日、従五位下・大和守に叙任する。
寛政7年(1795年)、雄年が死去すると、藩政を主導する。雄年が生前に派手な生活を送って借金が重なり、藩財政が破綻寸前となっていたため、義苗はまず財政改革に乗り出した。「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を1割2分の利子で13年間に1500両も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事、産業開発などを積極的に行なった。特に倹約は厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減したと言われている。こうした一連の緊縮財政政策により、財政再建は成功した。
さらに民政においては、減税政策や目安箱設置による優秀な意見の採用を行ない、教育面では学問を奨励して、後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院の設立を行なって人材の育成に努めた。
天保6年(1835年)1月、長男の雄興に家督を譲って隠居する。しかしその雄興が天保9年(1838年)に早世すると、孫の雄嘉に家督を継がせて、自らは藩政の実権を弘化2年(1845年)6月28日に死去するまで握り続けた。享年68。
菰野藩中興の名君と言われている。
系譜
父母
- (木下俊直)(実父)
- 土方雄貞(養父)
正室
子女
- 土方雄興(長男)生母は正室
- (木下俊国)(次男)
- (土方義方)(三男)
- (土方義行)(四男)
- (折井義孝)(五男)
- (松田義保)(六男)
- (中根正昭)室
- (興津忠本)の養女
- (榊原正邦)室
- (土方光良)室
註
- ^ 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)