土御門 通行(つちみかど みちゆき)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。内大臣・源通親の六男。官位は正二位・権大納言。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
建仁4年(1204年)1月5日、叙爵。建保4年(1216年)1月5日、従五位上に昇叙[1]。建保5年(1217年)12月12日、侍従に任ぜられる。安貞元年(1227年)12月25日、左少将に任ぜられる[2]。同年2月1日、上総権介を兼ねる。安貞3年(1229年)4月13日、正五位下に昇叙。寛喜2年(1230年)1月5日、従四位下に昇叙。同月24日、改めて左少将に任ぜられる。貞永2年(1233年)1月24日、能登介を兼ねる。文暦2年(1235年)1月23日、従四位上に昇叙。嘉禎3年(1237年)1月24日、正四位下に昇叙。嘉禎4年(1238年)2月6日、左中将に転任。仁治2年(1241年)3月1日、三河介を兼ねる。仁治3年(1242年)3月7日、蔵人頭に補される。
仁治3年(1242年)12月25日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。仁治4年(1243年)2月2日、遠江権守を兼ねる。同年閏7月27日、従三位に昇叙。宝治2年(1248年)1月13日、讃岐権守を兼ねる。同年7月17日、正三位に昇叙。建長2年(1250年)1月13日、権中納言に任ぜられ、帯剣を許される。建長3年(1251年)1月5日、従二位に昇叙。同月22日、右衛門督を兼ね、検非違使別当に補される。建長4年(1252年)12月8日、右衛門督と検非違使別当を辞した。建長6年(1254年)12月25日、権大納言に任ぜられ正二位に昇叙。正嘉3年(1259年)4月17日、権大納言を辞した[3]。文永7年(1270年)6月30日、薨去[4]。享年69。