土岐 頼次(とき よりつぐ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。美濃国の守護大名土岐頼芸の次男。通称は二郎[2]、小次郎[3]、左馬助[2]、左京亮[1]。後に見松と号した。
略歴
家臣の斎藤利政(道三)の讒言によって、兄の頼栄(頼秀)が父・頼芸の勘気を受けて廃嫡されたため、嫡子となった。初名は頼師という[1]。
父と共に初め川手城、次いで大桑城に移り、天文16年(1547年)に父が美濃国を追放された際に、まだ幼い頼次は京都に移住した[6]。
道三と斎藤義龍の争いに際しては義龍側に属し、義龍より本領を安堵されている[7]。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉に馬廻として仕え、河内国古市郡内に500石を与えられた[8][6]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、徳川家康、秀忠に拝謁して本領を安堵された。
また、西軍の敗将として切腹した斎村政広から没収した獅子王の剣を、家康は土岐氏は源頼政の子孫であるという理由で頼次に与えた[2]。
脚注
- ^ a b c d 近藤瓶城 1926, p. 11.
- ^ a b c d e f g 堀田 1923, p. 519.
- ^ a b 「村山文書」所収、天文19年または20年11月5日付け織田寛近からの書状で使用、桑田忠親『斎藤道三』1973年 新人物往来社
- ^ 長男頼勝の子孫は高家旗本として仕えた。
- ^ 三男頼泰の子孫は旗本として幕府に仕えた。元禄14年(1701年)に発生した江戸城中で浅野長矩が吉良義央に切りかかった赤穂事件の際に長矩を取り押さえた梶川頼照は、頼泰の子である。
- ^ a b c 伊東 1932, p. 86.
- ^ 「村山文書」による。
- ^ a b 阿部 1990, p. 540.