この(存命人物の記事)には、がまったくありません。(2021年2月) |
来歴・人物
寝屋川市立第二中学校時代はバレーボール部に所属[1]。
大阪市立桜宮高等学校では2年秋からベンチ入りし[1]、後に中日ドラゴンズに入団する1年先輩の矢野輝弘とバッテリーを組む。3年夏は大阪府大会ベスト4[1]。野球部の1年先輩に矢野の他、後に漫才コンビ・ベイブルースを結成する河本栄得・高山知浩がいた。
進学した東海大学では、4年秋に首都大学野球リーグで最優秀投手賞を受賞したほか[1]、全日本大学野球選手権大会にも出場している。
大学卒業後の1992年に日本生命に入社。杉浦正則らと共に長年にわたって主戦としてチームを支えた。また2000年にはシドニーオリンピック野球日本代表に選出されている。
2005年からはコーチ兼任でプレーし、2009年限りで現役を引退。2010年からは専任コーチとして投手陣の育成に努めた[1]。2011年限りでコーチを退任し、以後は社業に専念している[2]。
日本代表キャリア
- 四カ国・地域対抗戦(1999年第2回)
- 2000年シドニーオリンピックの野球競技・日本代表壮行試合日本代表(2000年)
- シドニーオリンピック野球日本代表(2000年)
- IBAFワールドカップ日本代表(2003年、2005年)