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嚶鳴社

嚶鳴社(おうめいしゃ)は、明治時代前期の政治結社。元老院大書記官の沼間守一1878年明治11年)に設立。自由民権・国会開設を主張。東京に本社を設立、関東や東北など全国各地に支社を置き、盛期には社員1000人以上の規模となった。

概要

明治5年、理事官の洋行に随行して西洋の言論活動を見聞した沼間が、1873年(明治6年)に河野敏鎌ら東京の下谷摩利支天別当に設立した法律講習会が前身で、討論や演説活動を行っていた。

法律講習会は、はじめは聴衆も10人に満たなかったが、沼間らはつづけたので、来会者はふえた。明治8年7月、沼間は河野の推挽で元老院権大書記となり、法制の取り調べに従ったので、沼間は同僚に多くの学者がいた。そのなかの島田三郎、田中耕造、小池靖一らが加わった。

西南戦争後に嚶鳴社と改称し、柳橋万八楼へ移り、毎日曜日に会合した。ひとつには法律政治を討究し、ひとつには公衆をあつめ講談演説することとした。河津祐之肥塚龍、島田三郎、草間時福田口卯吉金子堅太郎末広重恭らが参加。

1879年(明治12年)5月に官吏の演説活動が禁止されると(嚶鳴社員の3分の1は官吏であった)、10月に『嚶鳴雑誌』を発刊し(3年半ほどつづいた)、11月には機関紙「東京横浜毎日新聞」を発行した。一方では聴衆に入社をすすめ、他方では官吏である会員は以後、一般聴衆に会えないからと演説筆記を雑誌に載せたのである。社員は間もなく数百に増えたが、地方人が入社を申し込み、支部をつくったところもある。金子や末広らは私擬憲法である「嚶鳴社憲法草案」を起草する。

1882年(明治15年)に「女帝の可否」と題して討論会を開催、島田三郎益田克徳沼間守一が女帝否認の立場から、肥塚竜草間時福丸山名政青木匡波多野伝三郎が女帝容認の立場から議論を交わし、東京横浜毎日新聞に掲載された。このうち島田三郎の演説が、井上毅の「謹具意見」に引用され、帝国憲法において女性天皇が否認される論拠となった[1]

院制や選挙制度を巡り社内でも意見がわかれ、1880年(明治13年)には草間らが国会期成同盟に加わる。沼間らは自由党結成に合流する動きもみせたが、1882年(明治15年)に明治十四年の政変で下野した大隈重信らの立憲改進党結成に合流し、7月の集会条例で解散。

脚注

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  1. ^ “明治期の「女帝否定論」を紐解く 島田三郎(衆議院議員)の嚶鳴社討論”. 皇室問題研究室. 2020年6月3日閲覧。
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