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周布 政之助(すふ まさのすけ)は、幕末の長州藩士。政之助は通称で、諱は兼翼(かねすけ)。変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。
略歴
周布氏は益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。
政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・(周布吉左衛門兼正)と(村田伝左衛門信嘉)の娘竹の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。
来原良蔵や松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた[1]。
元治元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗[2]、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。