名和 顕孝(なわ あきたか)は、戦国時代の武将。宇土名和氏の6代当主。宇土城主。「まんが日本昔ばなし」の「孝行娘」に登場する「若殿さま(伯耆守顕孝)」と同一人物である[2]。
概要
天正7年(1579年)、島津氏に対して城氏と共に接近[3]。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による島津氏征伐に巻き込まれ降伏し、豊臣軍に加勢して功を挙げた[3]。これにより秀吉から本領安堵を約束される[3]。天正16年(1588年)からは筑前国の小早川氏に属した[3]。
跡目は子の(長興)が継ぎ、柳川藩主・立花宗茂に召し抱えられ、「伯耆(ほうき)」を称した。子孫は柳川藩士として存続し、幕末に至って再び「名和(なわ)」を称した。時の当主・(名和長恭)が男爵に叙せられ、名和神社の神職となった。