吉江 景資(よしえ かげすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長尾氏(上杉氏)の家臣。越後国(吉江城)主。魚津城の戦いにおける守将の一人とされる。
生涯
大永7年(1527年)、越後西蒲原郡(弥彦庄)吉江の国人・吉江宗信の子として誕生。
上杉謙信に旗本として仕え、謙信の関東や越中国出兵の際は春日山城留守居役軍監などを務めた。永禄10年(1567年)には下野国唐沢山城を守った。天正年間からは、能登国や越中を転戦した。
天正6年(1578年)の謙信急死後、景資ら吉江氏が守備する越中は織田氏配下の柴田勝家の攻勢に晒され、吉江一族は奮戦するも、本能寺の変の翌日の天正10年(1582年)6月3日、魚津城で父・宗信、長子寺島長資、次男中条景泰と共に親子三代揃って自害したと考えられている。享年55。しかし「魚津在城衆十二名連署状」の中には景資の名はなく、大きな謎として残っている。
家督は遺子・(長忠)が継いだ。
系譜
脚注
出典
- 『越佐史料』
- 『上杉家御年譜』
- 『中条家文書』
関連作品
- 『(蜃楼の城郭)』(佐伯光太郎)(文芸社)
外部リンク
- Historiographical Institute The University of Tokyo/大日本史料第十編之二十三編纂ノート
- 魚津城の戦い|各種情報|魚津市