厚木氏(あつぎし/あつきし)は鎌倉時代から江戸時代中期の武家。清原氏を祖とし、芳賀氏の重臣。後に後北条氏家臣、結城氏家臣。家紋は丸に橘。
厚木氏 | |
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丸に橘 | |
本姓 | 清原朝臣 |
家祖 | ? |
種別 | 武家 → 地下人(医家) 平民 |
出身地 | 相模国愛甲郡(厚木村) |
主な根拠地 | 相模国愛甲郡厚木村 武蔵国江戸日本橋 東京都中央区日本橋 |
著名な人物 | 厚木淳 |
支流、分家 | (石渡氏) |
(凡例) / (Category:日本の氏族) |
都立谷中霊園、天王寺墓地に三本の榊が植えられた、末裔の墓がある。[1]
江戸時代中期、日本橋に女科(産婦人科)を開設、医家となった。
主な武将
主な末裔
- (厚木學) - 厚木産婦人科5代目院長。北海道帝国大学医学部卒業。(厚木式簡易間接輸血器)を開発、大日本帝国海軍より正式採用とされた。御手洗毅とは大学同期であり親交厚く、キヤノン創設にあたっては出資を行い協力。また、永井荷風の主治医を務め、往診を行った。[3]1954年(昭和29年)6月、大腸癌にて逝去。行年54歳。
- (厚木齊陽) - 學の長男。成城高等学校 (旧制)を経て、東北帝国大学医学部卒、東京大学文学部哲学科卒。(東京産婦人科医会)5代目会長、日本産婦人科医会常務理事、厚木産婦人科 (平成18年より、アツキ女性クリニックと称す) 6代目院長。 通称、「厚木斉陽」。2016年12月24日、老衰にて逝去。行年93歳。新たな医療哲学体系の構築を希求し、東洋医学と西洋医学を組み合わせ、全人的医療を実践した医師であった。[4]
- 厚木淳 - 學の次男。日本の翻訳家、編集者。成城高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学経済学部在学中に創元社入社、東京創元社にて編集者、翻訳者として就労、兄、(厚木齊陽)の助言により、創元推理文庫にSF部門を設ける。主要訳書は火星シリーズを代表とするエドガー・ライス・バローズ、及びアガサ・クリスティ等。2003年5月19日、胆管癌にて逝去。行年73歳。100冊近い翻訳を手がけ、英語とフランス語の本がともに読める編集者であった[5]。
家訓
- 「嫡男は起倒流の体術に精励すべし」[6]
脚注
- ^ 神奈川県厚木市教育委員会より、厚木朝高後裔である旨の通知。及び厚木家 家臣団末裔が(厚木齊陽)を訪問。なお、そもそも存在した室町後期からの家系図、武具等資料は下谷厚木家に保存されていたが東京大空襲により焼失した
- ^ 齊陽の祖父、厚木万次郎(1899年 明治32年没 行年30歳)による口伝
- ^ (厚木齊陽)による口伝、及び岩波現代文庫刊、秋庭太郎著 「考証 永井荷風(下)」p70 3-5行目
- ^ 一般社団法人(東京産婦人科医会) TAOGニュース 2017年4月号
- ^ https://honyakumystery.hatenadiary.org/entry/20141212/1418339934 翻訳家交遊録3(戸川安宣 (編集者)氏 執筆)
- ^ (東京産婦人科医会)報寄稿 「趣味は健康法」5ページ 20行目
参考文献
外部リンク
- 厚木城 (日本語)
- - ウェイバックマシン(2014年12月25日アーカイブ分) (日本語)
- - ウェイバックマシン (日本語)
- 厚木の歴史の概要 (日本語)
- 芳賀の文化財 (日本語)
- 神奈川県厚木市教育委員会 (日本語)
- 一般社団法人東京産婦人科医会 公式サイト (日本語)
- 公益社団法人日本産婦人科医会 公式サイト (日本語)
- 厚木淳インタビュー (日本語)