» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

南部光行

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての武将従三位南部氏の始祖。

 
南部光行
南部光行像
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 永万元年(1165年
死没 嘉禎2年3月18日1236年4月25日
別名 信濃三郎、南部三郎(通称)
墓所 岩手県盛岡市北山の聖寿禅寺
官位 従三位
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族 加賀美氏南部氏
父母 加賀美遠光杉本義宗
兄弟 秋山光朝小笠原長清光行
(加賀美光経)、(於曽経行)、大弐局
(一戸行朝)、実光実長七戸朝清
(四戸宗清)、(九戸行連)
(テンプレートを表示)
道の駅なんぶにある、南部三郎光行公像。2020年1月撮影。

略歴

加賀美遠光の三男。

治承4年(1180年)、石橋山の戦い源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部五郡を与えられ[1]、現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。

また、『吾妻鏡』同年6月9日条に拠れば源頼朝鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めておりこの頃は「信濃」を名字としていたが、『吾妻鏡』建久6年(1195年)5月20日条の源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている。

また、建治元年(1275年)「(六条八幡宮造営注文)」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる。

死没年には建保3年(1215年)11月21日、嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、嘉禎4年(1238年)2月に4代将軍・藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。

六人の息子がおり、長男の(行朝)は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光三戸南部氏を継ぎ、三男の実長八戸氏の祖、四男の朝清七戸氏の祖、五男の(宗清)は四戸氏の祖、六男の(行連)は九戸氏の祖となった。

系譜

系図

 源頼義 ┃   源義光源義清   ┃ 源清光   ┏━━━━━━━━━━┫ 武田信義   加賀美遠光━━━┳━━━和田義盛の姉妹 ┃             ┃      ┃    ┏━━━━╋━━━━┳━━━━┓   一条忠頼 秋山光朝 小笠原長清 南部光行  大弐局                   ┃     ┏━━━━━╋━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓    (行朝)    実光    実長    朝清    (宗清)    (行連)   (一戸氏) (三戸氏) (八戸氏) (七戸氏) (四戸氏) (九戸氏

その他

吾妻鏡において、「信乃三郎」(信濃三郎)と記載されているため、しばしば志村光行と表記されることがある。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 糠部五郡とは糠部郡岩手郡閉伊郡鹿角郡津軽郡 (陸奥国)のことだとされているが、これらは後の16世紀半ば南部氏領の最大版図とほぼ同域であり、豊臣政権から領地安堵してもらうことと津軽地方を押領している大浦(津軽)為信惣無事令に違反する逆徒と訴えていることについて、歴史的にも正当性があるように南部家伝を捏造したと考えられている。

参考文献

  • 七宮涬三『陸奥 南部一族』新人物往来社、1987年。ISBN (4-404-01468-6)。 
  • 網野善彦「甲斐国御家人についての新史料」『山梨県史研究 創刊号』1993年
  • 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年6月10日。ISBN (4404034733)。 
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。