来歴
1984年に栗東・小林稔厩舎からデビューし、3月3日の阪神第7競走5歳以上400万下・マーメードハット(8頭中6着)で初騎乗を果たす。同馬は須貝彦三厩舎の管理馬で、馬主は森乃福郎であった。同31日の阪神第2競走4歳未勝利で伊藤修司厩舎のギフトイチバンに騎乗し、初勝利を挙げる。1年目の同年は6月の阪神、9月の函館、12月の中京で1日2勝をマークするなど21勝を挙げ、関西の新人賞にあたる関西放送記者クラブ賞を受賞。2年目の1985年には金鯱賞・キャノンゼットで重賞初勝利を挙げ、1987年にはサッカーボーイで阪神3歳ステークスを制し、自身2年ぶりの重賞制覇が唯一のGI制覇となった。同年には弟弟子の塩村克己がデビューして33勝を挙げるが、内山は12勝に終わる。1988年からはフリーとなるが、弥生賞3着でサッカーボーイの主戦騎手を降板。同年は初の1桁となる4勝に終わり、2桁が4年連続でストップするが、4勝中3勝は11月の福島で挙げたものであった。1989年から1995年までは7年連続2桁をマークし、1991年7月28日の小倉第6競走4歳未勝利・アンサーティンで通算100勝を達成。1994年には自己最多の28勝を挙げ、神戸新聞杯では河北通から乗り替わったメルシーステージでスターマンの2着に入ったが、京都新聞杯からは河北の手綱に戻っている。1995年10月21日京都第3競走4歳以上500万下・パシアンで200勝を達成し、1996年からは同じ小林厩舎の兄弟子で、またサッカーボーイに騎乗してGIを勝利した縁から小野幸治厩舎に所属。同年から2000年は1桁台に低迷し、1998年からは再びフリーとなる。その間の1997年は、第1回シリウスステークスでフサイチヒロシをトーヨーレインボーの3着、北九州記念ではメガミゲランを3着に導くなど、重賞でも見せ場を作った。1999年は自己最低の3勝に終わり、阪急杯・フサイチヒロシ(16頭中14着)を最後に重賞での騎乗も無くなる。2001年には6年ぶりの2桁となる13勝と盛り返すが、結局は最後の2桁勝利となった。2002年9月2日の小倉第7競走3歳未勝利・ネバーセイネバーが最後の勝利となり、9月15日の阪神第7競走3歳以上500万下・ジャングルビート(競走中止)が最後の騎乗となった。2003年4月20日付で現役を引退。
成績
- 通算成績 - 3675戦255勝(うち障害競走14戦3勝)重賞2勝
主な騎乗馬
※太字はGIレース。
- キャノンゼット(1985年金鯱賞)
- サッカーボーイ(1987年阪神3歳ステークス)
- その他