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内外ビルディング

内外ビルディング(ないがいビルディング)は、かつて日本東京都千代田区丸の内にあった建築物である。

内外ビルディング
関東大震災により崩壊した内外ビルディング
情報
用途 事務所
設計者 中栄橘建築事務所
施工 日本土木
建築主 内外ビルヂング
構造形式 鉄筋コンクリート構造
建築面積 2,040 m² (617坪)
階数 地下1階、地上8階
高さ 約31メートル(100尺)
着工 1921年(大正10年)1月
竣工 未完(関東大震災で倒壊)
所在地 東京府東京市麹町区(八重洲町)一丁目1番地
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内外ビルディング

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情報
旧名称 昭和ビルディング
用途 事務所
設計者 大倉土木
構造設計者 阿部美樹志
施工 大倉土木
建築主 内外ビルヂング
事業主体 内外不動産
構造形式 鉄筋コンクリート構造
敷地面積 2,314 m² (700.0坪)
建築面積 1,819 m² (550.100坪)
延床面積 11,659.2 m² (3,526.920坪)
階数 地下1階、地上6階、塔屋付
高さ 地盤面上パラペット上端まで72尺5寸 (22.5 m)、屋上階最高部まで80尺 (24.8 m)
着工 1926年(大正15年)2月21日
竣工 1927年(昭和2年)7月31日
改築 1979年(昭和54年)1月解体
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沿革

東京市麹町区(八重洲町)一丁目1番に土地を保有していた大日本製糖が、自社の社屋に加え商業ビルの経営を企図して1922年(大正11年)に内外ビルヂング会社を設立[1]。直ぐ様建設に着手したものの、完成が目前に迫った1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し建築中の建物は全壊[1]、多数の作業員が犠牲となった。

震災での崩壊を受けて設計をやり直し、1925年(大正14年)11月24日に地鎮祭を挙行し1926年(大正15年)2月21日から再度工事を着工。1927年(昭和2年)7月31日に竣工し、同年8月に大日本精糖が本社機能をここに移した[2]。なお竣工当初、ビル名を昭和ビルディングとしたものの、後に内外ビルディングに名称を戻している[1]

終戦直後の1946年(昭和21年)3月に内外ビルディングは連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収され、1952年(昭和27年)12月の接収解除まで将校宿舎「エンパイヤーハウス」として使用された[3]。接収解除直前の1952年10月に内外ビルヂングは三井不動産会社傘下となったため、解除後は三井不動産によってオフィスビルとなった[1]。1954年(昭和29年)から1966年(昭和41年)までは富士重工業 (現: SUBARU) の本社も所在していた。1956年(昭和31年)12月には増築に着手し1958年(昭和33年)1月14日に完成、1962年(昭和37年)4月に再増築を行った[4]。だが度重なる増築にも関わらず建物自体の陳腐化・老朽化は避けられず、1979年(昭和54年)1月に解体。現在跡地には(丸の内三井ビル)が建っている[5]。また三井不動産傘下となった内外ビルヂングは1969年(昭和44年)3月27日に第一産業会社と合併して、商号を内外不動産と改め現在に至る[6]

出典

  1. ^ a b c d 『三井不動産四十年史』 87-90頁
  2. ^ 『日糖六十五年史』 500頁
  3. ^ 『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 上巻495頁
  4. ^ 『三井不動産四十年史』 134頁、641頁
  5. ^ 『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 下巻343-346頁
  6. ^ 『三井不動産四十年史』 260頁

参考文献

  • 『建築雑誌』 第四一輯第五〇一號、建築學會、昭和2年(1927年)10月。[]
    • 昭和ビルヂング新築工事概要[]
    • 昭和ビルヂング []
  • 塩谷誠編集 『日糖六十五年史』 大日本製糖株式会社、昭和35年(1960年)12月30日。
  • 財団法人日本経営史研究所編集・制作 『三井不動産四十年史』 三井不動産株式会社、昭和60年(1985年)6月26日。
  • 三菱地所株式会社社史編纂室編 『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 三菱地所株式会社、平成5年(1993年)。
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