佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六[1]。
来歴
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2022年8月) |
1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生[1]。
父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』、『陸奥評話』、『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。
1890年(明治23年)東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(現・弘前高校)に入学[1]。1893年(明治26年)、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京[1]、翌1894年(明治27年)日本新聞社に入社[1]。正岡子規の勧めで俳句を始め「紅緑」と号す[1]。1895年(明治28年)脚気を患ったために帰郷[2]、東奥日報社に入社[1]、小説、俳句などで活躍。1896年(明治29年)、東北日報社、翌1897年(明治30年)には河北新報社の主筆となる。1900年(明治33年)、報知新聞社に入社し[1]、大隈重信に重用される。記者活動の他に俳人として活躍。大デュマ、ヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳も手がける。
1905年(明治38年)、記者生活を止め、俳句研究会を起こす。小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品により注目を浴び、1908年(明治41年)、創作集『榾(ほだ)』を刊行。1912年(大正元年)に小説『霧』、1913年(大正2年)に『谷底』をはじめ新聞連載小説を発表する。
一方で、1906年(明治39年)から1914年(大正3年)まで、新派の本郷座の座付作者を勤めるなど、演劇に力を注ぎ、1909年(明治42年)日本最初の映画会社の吉沢商会顧問となり、1916年(大正5年)は劇団日本座を立ち上げた[2]。20歳下の女優横田シナ(後、三笠万里子と改名)を見初める。1918年(大正7年)、年上女房はるとの別居などを経て、1922年(大正11年)、万里子と結婚。1923年(大正12年)、映画研究のため渡欧、翌1924年(大正13年)東亜キネマの所長に就任する(1925年(大正14年)退任)[2]。紅緑は妻・三笠万里子を女優として売り出そうとするが、「紅緑にとりいって主役の座を得た」との悪評により、成果は思わしくなかった。結局、万里子は妊娠・出産により女優を断念する。
1919年(大正8年)から1927年(昭和2年)にかけて新聞雑誌に連載小説『大盗伝』(1921年・大正10年)「荊の冠」(1922年・大正11年)『富士に題す』(1927年・昭和2年)を書き、大衆小説の人気作家となる。
1925年(大正14年)ごろ、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)甲子園の自宅を「少年倶楽部」編集長の加藤謙一が訪問して、連載小説の寄稿を依頼した[3]。佐藤は「洟垂れ小僧向けに書けるか」と激怒し、諦めた加藤が去り際に「佐藤先生ならよい読み物を書いてもらえると思って来たのだが」と口にすると「考えてみる」と翻意、加藤の帰京後しばらく経ってから電話で連載受諾を返答した[3]。この結果、1927年(昭和2年)から少年小説『あゝ玉杯に花うけて』を連載し好評を博し[1]、挿絵画家高畠華宵の寄稿拒否で低迷していた「少年倶楽部」の部数を大きく伸張させた[3]。その後も『少年讃歌』、『英雄行進曲』などを書き、同誌の黄金期を築いた。また、加藤謙一に漫画の掲載を進言し、田河水泡の『のらくろ』が生まれることになる[4]。
「少年倶楽部」と同じ大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「キング」などにも多くの連載小説がある。『少年連盟』はジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』の翻案である。
1949年(昭和24年)6月3日、老衰のため東京都世田谷区上馬の自宅で永眠[1]。享年75。戒名は好学院殿創文紅緑居士[5]。
人物
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2022年8月) |
本人の意に反して執筆することとなった「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け[6]、「少年小説の第一人者」として知られる。子どもに作詞家で詩人のサトウハチロー[1]、小説家の佐藤愛子[7]、脚本家で劇作家の大垣肇がいる。3人とも母は異なり、肇は愛人の子供であり、同居はしていない。弟子に佐藤惣之助と、独自の日本文化論を提唱した福士幸次郎の、2人の詩人がいる。福士は紅緑の食客で、紅緑の家庭内の事件のたびにその収拾に奔走した。
晩年の紅緑は、少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも、別居していた肇以外の、長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良青少年となった。ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた破綻者となり、破滅的な死を迎えた。紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・愛子の小説『血脈』に描かれている。
著書
- 従軍記者決死隊(新声社 1901年11月)
- 滑稽俳句集(内外出版協会ほか 1901年)
- 俳句小史(内外出版協会 1902年4月)
- 芭蕉論稿(金港堂書籍 1903年)
- 俳諧紅緑子(有朋館 1904年3月)
- 蕪村俳句評釈(俳句入門叢書)(大学館 1904年3月)
- 俳句作法(東京国民書院 1906年1月)
- 古句新註(読売新聞社 1906年3月)
- あん火(服部書店 1908年2月)
- 嘘(服部書院 1908年4月)
- 地蔵子(服部書店 1908年3月)
- 死人(服部書店 1908年3月)
- 榾(服部書店 1908年4月)
- 紅緑日記(読売新聞日就社 1908年2月)
- 桜田門外雪の曙(大盛堂 1910年8月)
- 都俳句(三森幹雄共編 清華堂ほか 1910年1月)
- 侠艶録(新潮社 1912年1月)
- 礎 武士道皷吹新派浪花節(金尾文淵堂 1913年)
- 潮(新潮社 1913年)
- 赤い玉(東京国民書院 1913年)
- 雲乃響(新潮社 1913年)
- 十七の頃(鳳鳴社 1914年)
- 嵐(菊屋出版部 1914年)
- 紅緑脚本集(池田喜江 1914年)
- 光の巷(菊屋出版部 1915年)
- 鳩の家(菊屋出版部 1915年)
- 虎公(菊屋出版部 1916年)
- 母と子(菊屋出版部 1916年)
- 日の出る国(菊屋出版部 1917年)
- 桜の家(至誠堂 1917年-1918年)
- 孔雀草(至誠堂書店 1917年-1918年)
- 黄金(玄文社 1919年)
- 春の流(講談社 1919年)
- 夕千鳥(樋口隆文館 1919年)
- 咲く花散る花(樋口隆文館 1919年)
- 乳房(ニコニコ倶楽部 1920年)
- 結婚前後(日本評論社 1920年)
- 微笑(玄文社 1920年)
- 何処まで(日本評論社 1921年)
- ワンワン物語(博文館 1922年)
- 美しき人々(玄文社 1922年)
- 大慈大悲(玄文社出版部 1922年)
- 荊の冠(毎夕社出版部 1923年)
- 大盗伝 青春篇、愛恋篇、争闘篇(東京毎夕新聞社 1922年-1923年)
- 楽園の扉(大日本雄弁会 1926年)
- 幸福物語(大日本雄弁会 1926年)
- 第一歩(大日本雄弁会 1927年)
- あゝ玉杯に花うけて(大日本雄弁会講談社 1928年)、講談社少年倶楽部文庫 1975年
- 戯曲キリスト(新潮社 1928年)
- 東西婦人観(大日本雄弁会講談社 1928年)
- 町の人々(大日本雄弁会講談社 1928年)
- 桜田門外血染の雪 井伊大老と水戸浪士(三水社出版部 1928年)
- 紅顔美談(大日本雄辯會講談社 1929年3月)
- 毬の行方(大日本雄辯會講談社 1929年3月)
- 少年讃歌(大日本雄弁会講談社 1930年)、少年倶楽部文庫 1975年
- 朝の雲雀 (大日本雄弁会講談社 1930年)
- 麗人(新潮社 1930年)
- 富士に題す(大日本雄弁会講談社 1930年)
- 野に叫ぶもの(新潮社 1931年)
- 一直線(講談社 1931年)
- 夾竹桃の花咲けば(大日本雄弁会講談社 1931年)
- 新たに芽ぐむもの(新潮社 1932年)
- 麗はしき母(大日本雄弁会講談社 1933年)
- 少年聯盟(大日本雄辯會講談社 1933年3月)、少年倶楽部文庫 1976年
- 英雄行進曲(大日本雄弁会講談社 1935年)
- 絹の泥靴 昭和長篇小説全集 第11巻(新潮社 1935年)
- あの山越えて(大日本雄辯會講談社 1936年5月)
- 英雄行進曲 出世篇(大日本雄辯會講談社 1936年12月)
- 手に手をとつて(大日本雄辯會講談社 1937年7月)
- 黒將軍快々譚(大日本雄辯會講談社 1938年2月)、少年倶楽部文庫 1976年
- 街の太陽(講談社 1939年)
- 美しき港(大日本雄弁会講談社 1939年)
- 花咲く丘へ(大日本雄辯會講談社 1939年1月)
- 滿潮(大日本雄辯會講談社 1940年5月)
- 英雄群像(博文館 1942年)
- 朝日の如く(大衆文芸社 1942年11月)
- 花紅柳緑(六人社 1943年)
- 緑の天使(ポプラ社 1948年)
- 少年行進曲(まひる書房(少年少女文庫撰) 1948年)
- 節操の境界線(東方社 1948年)
- 紅緑句集(大日本雄弁会講談社 1950年)
- 十五少年漂流記(ジュール・ヴェルヌ ポプラ社 1950年)
没後刊行
参考文献
この節にはや(外部リンク)の一覧が含まれていますが、(脚注)による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
- 佐藤愛子『花はくれない-小説・佐藤紅緑』講談社文庫 1976年
- 佐藤愛子『血脈』文藝春秋 2001年
- 復本一郎『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』岩波書店 2002年
佐藤紅緑を演じた俳優
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k “佐藤 紅緑”. www.city.hirosaki.aomori.jp. 弘前市. 2022年8月23日閲覧。
- ^ a b c “佐藤 紅緑 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館:兵庫県立美術館. 2022年8月23日閲覧。
- ^ a b c 加藤丈夫『「漫画少年」物語 編集者加藤謙一伝』都市出版、2002年、pp.116 - 118
- ^ 『「漫画少年」物語 編集者加藤謙一伝』p.124
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)155頁
- ^ “佐藤 紅緑 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館. 2022年8月23日閲覧。
- ^ “佐藤 紅緑 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館. 2022年8月23日閲覧。
外部リンク
- 佐藤紅緑:作家別作品リスト - 青空文庫