佐竹 義宣(さたけ よしのぶ、貞和2年/正平元年(1346年) - 康応元年/元中6年7月14日(1389年8月5日)[要出典])は、日本の南北朝時代の武将で、常陸国佐竹氏の第10代当主。初名は義香(よしか)。官位は左近将監、左馬助、(伊予守)。
生涯
父は佐竹義篤で、母は(小田知貞)の娘。弟に(小場義躬)(母は濱名氏の娘)、石塚宗義、(大山義孝)、(藤井義貫)(義実)。子は佐竹義盛、(佐竹義有)。
母の実家である小田氏が小山若犬丸を匿った罪により、鎌倉公方足利氏満の追討を受けた際は、小田氏と縁戚関係にあったため警戒され、家臣の(小野崎通郷)、(江戸通高)を派遣するに留まっており、通高は(難台城)の戦いで奮戦した末、討死した。