生涯
出自については判然としないが、毛利元就に仕える。
享禄3年(1530年)7月24日、安芸国山縣における尼子経久との合戦に従軍し、弓矢の腕を比類無きものであるとして、翌日に元就から感状を与えられた。
天文9年(1540年)、尼子晴久が出雲・石見・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作・安芸の兵30,000[1]を率いて安芸国に侵攻し、元就の吉田郡山城を包囲した(吉田郡山城の戦い)。同年9月12日、尼子晴久の軍との(大田口の戦い)で元継は武功を挙げ[2]、同年10月11日の(青山土取場の戦い)では尼子誠久や(三沢為幸)らの軍勢と戦って負傷しつつも戦功を立てた。この戦いは毛利軍の(井上就綱)が三沢為幸を討ち取り、大勝を収めた[3]。また、翌天文10年1月13日の(宮崎長尾の戦い)における尼子陣切り崩しの際に武功を挙げた[4]。以上の吉田郡山城の戦いにおける3つの合戦においても、それぞれ翌日に元就から感状を拝領している。
その後の元継の動向は不明だが、佐伯氏は子・(行継)が後を継いだ。
脚注
- ^ 『(毛利元就郡山城籠城日記)』による。
- ^ 大田口の戦いでは、佐伯元継以外にも(中村就久)、(渡辺規)、(三戸元久)、(三宅元重)、(綿貫就資)、(弘九郎左衛門尉)、(波多野就雅)、児玉就秋、(末国光氏)、八幡原元直、(佐藤元実)など、多くの家臣に元就の感状が与えられており、激戦であったことが窺える。
- ^ 青山土取場の戦いでは、元継以外に児玉就方、(井上元良)、粟屋元親、(市川五郎左衛門)、(井上元助)、(井上新三郎)、(三戸元久)、(中村就親)、(井上元保)、(末国光氏)、(赤川元忠)、(三戸元清)、井上光俊、(岡光良)、(羽仁元永)、(内藤九郎右衛門尉)、(赤川又七郎)らにも感状が与えられている。
- ^ 宮崎長尾の戦いでは元継以外にも、児玉就方、赤川元秀、(佐藤元実)、(高神四郎)、(市川五郎左衛門)、(岡光良)、(内藤彦四郎)、(内藤九郎右衛門)、児玉就光、(三戸元富)、(粟屋就俊)、飯田元重、(井上元助)、粟屋元信、(信常就程)、(三戸元久)、(中村就親)、八幡原元直、(三戸元清)らに感状が与えられた。