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佐々木 顕発(ささき あきのぶ[1])は、江戸時代末期の旗本。一介の旗本家来から御家人、旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した人物として知られる。
経歴
飛騨郡代所の地役人(元締手代)(河野周助)の子として生まれた。後に江戸に出て、幕府奥右筆(田中龍之助良顕)に侍(武家奉公人)として仕えた。その後田中の援助により御徒の家に養子入りした。文政9年(1826年)御徒に抱入れられ御家人となった(職禄70俵5人扶持)。
- 天保2年(1831年)、支配勘定。
- 天保5年(1834年)、評定所留役。旗本となる。
- 天保13年(1842年)、勘定組頭。永々御目見以上となる。
- 天保14年(1843年)、勘定吟味役(布衣)。家禄100俵に。
- 嘉永4年(1851年)、(奈良奉行)。従五位下信濃守叙任。家禄200俵に。
- 嘉永5年(1852年)、大坂東町奉行(10月8日)
- 安政4年(1857年)、小普請奉行(2月24日)
- 安政5年(1858年)、勘定奉行(5月24日)
- 安政6年(1859年)、免職、差控(2月2日)。反井伊直弼派であったため。
- 文久2年(1862年)、徒頭、作事奉行
- 文久3年(1863年)、江戸北町奉行(4月16日 - 4月23日)、西丸留守居(4月23日 - 8月2日)、江戸南町奉行(8月2日)
- 元治元年(1864年)、外国奉行(6月29日)、御役御免・寄合(7月25日)
脚注
- ^ 日本歴史学会『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
参考文献
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- 小川恭一『江戸の旗本事典』講談社、2003年。(ISBN 4-06-273616-0)。
関連項目
外部リンク
- 落語の舞台を歩く-落語「佐々木政談」の舞台を歩く-墓所の写真など。