今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校((30期))を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった[1]。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵(32期)の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。さらに、砲術学校教官、第1艦隊参謀、「笠置」分隊長、練習艦隊参謀、「富士」分隊長などを歴任。
1913年(大正2年)5月、海軍大学校(以下「海大」)甲種11期を首席で卒業した。
伊東祐亨元帥副官兼海軍省副官の後、兼海相秘書官となり、斎藤実大臣に仕えた。ドイツ駐在を経てイギリス駐在となり、帰国後は軍令部参謀、第1艦隊参謀、兼連合艦隊参謀、「新高」艦長、海大教官兼軍令部参謀、海大教頭、「日向」艦長、東宮武官兼侍従武官などを歴任し、1925年1(大正14年)2月、海軍少将に進級。侍従武官を勤め、1930年(昭和5年)12月、海軍中将となった。
練習艦隊司令官、舞鶴要港部司令官、第3艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官を歴任した。なお練習艦隊司令官以後の後任者はすべて百武である。1936年(昭和11年)3月、予備役に編入された。同年から1945年(昭和20年)まで秩父宮別当を勤め、戦後は「三笠」の復興、また東郷平八郎の銅像併置を主張し、建設委員長として尽力した。(米沢海軍)武官会会員。
第一次世界大戦
イギリス駐在時代は、第一次世界大戦に観戦武官として従軍。戦艦「ヴァンガード」に乗組んでいたが、ユトランド沖海戦時は病のため病院船に在った。海戦後同艦の艦長以下から聞取り調査を行っている。同海戦では同郷かつ同期生であった下村忠助が戦死。のちに同艦に乗組んだ江渡恭助が爆発事故で戦死している。
栄典
- 位階
- 1904年(明治37年)3月18日 - 正八位[2]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 従七位[3]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 正七位[4]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 従六位[5]
- 1917年(大正6年)4月20日 - 正六位[6]
- 1921年(大正10年)1月20日 - 従五位[7]
- 1926年(大正15年)1月15日 - 正五位[8]
- 1930年(昭和5年)12月27日 - 従四位[9]
- 1933年(昭和8年)10月2日 - 正四位[10]
- 1936年(昭和11年)4月18日 - 従三位[11]
- 勲章等
親族
出典
- ^ 『異色の提督 百武源吾』p.19
- ^ 『官報』第6212号「叙任及辞令」1904年3月19日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1414号「叙任及辞令」1917年4月21日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
- ^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。
- ^ 『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。
- ^ 『官報』第2031号「叙任及辞令」1933年10月6日。
- ^ 『官報』第2789号「叙任及辞令」1936年4月22日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。