この(存命人物の記事)には、がまったくありません。(2014年2月) |
五十嵐 淳子(いがらし じゅんこ、1952年9月20日 - )は、日本の女優。戸籍名、中村 淳子(なかむら じゅんこ)。血液型A型。埼玉県浦和市(現さいたま市)出身[1]。身長163cm(1972年3月)[2]。所属事務所「ジュエム・カンパニー」[2]→「エム・ジェイ・エンタープライズ」。
人物
夫は、歌手・俳優の中村雅俊。現在の所属は夫が代表を務める個人事務所「エム・ジェイ・エンタープライズ」。
家族は夫と1男3女。うち、長男の中村俊太は元俳優。三女はモデル・タレントの中村里砂。
東京・渋谷区千駄ヶ谷に自らのフラワーショップ『パストーン』を主宰。フラワーアレンジメントスクール講師も務めており、各種イベントなどにも参加している。
略歴
- 1952年 - 埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)岸町の電器店を営む両親のもとに長女として出生。
- 1970年 - 川村中学校・高等学校在学中に(モデル・クラブ)「(ジャパンファッションモデルセンター)」に合格しモデル業を始め、芸能活動厳禁である同校を中退後にTBS『日曜8時、笑っていただきます』に「五十嵐じゅん」の芸名で芸能界デビュー。同番組で(お茶の間)ファンのアイドルとなる[2]。同級生に海老名みどりがいるが五十嵐は開校以来一番の美人で評判だったと証言している。
- 翌1971年に入ると芸能各誌のグラビアなどでひっぱりだことなり清純な美貌のアイドルとして人気を博す。
- 1975年 - 映画『阿寒に果つ』で主演。その後芸名を現在の旧姓の「五十嵐淳子」に改名。
- 1977年2月1日 - 日本テレビ『俺たちの勲章』での共演を機に中村雅俊と結婚(当時妊娠5ヶ月)。同年7月長男・俊太を出産し、芸能活動を休止する。
- 1988年 - ドラマ『教師びんびん物語』で6年ぶりの女優業復帰。
- 1999年 - 夫・中村が歌う曲『哀しい人』プロモーションビデオで23年ぶりの夫婦共演を果たす。ほぼ同時期、渋谷区千駄ヶ谷に子どもの頃からの夢だったフラワーショップ『パストーン』をオープンさせる。
- 2004年 - 「銀婚旅行」のイメージにふさわしい夫婦として「JAL銀婚旅行ベストカップル2004」に選ばれる。
- 2009年4月4日 - 長男で俳優の俊太が大麻所持で現行犯逮捕される。取材に答え、「今回のことは全く言い訳できない。育て方が悪いと言われたら謝るしかないです」「(俊太を)殴ってやりたい。軽率に薬物を所有していることが情けない。責任感が無い」と悲しみと怒りの入り混じった謝罪コメントを表明。
エピソード
- ドラマ『俺たちの勲章』にゲスト出演し中村と知り合ったが「それまでまともな恋愛をしたことが無かったのに、すぐに同棲を始めて結婚してしまいました。自分でも驚きでした」とトーク番組で語っていた。当時その言葉は存在していなかったが、長男・俊太を授かったために結婚した「さずかり婚」であった。
- デビュー当初は、五十嵐じゅんとして清純派ムードが愛され[2]、男の子を中心に[2]、人気を博していたが[1][2][3][4][5]、週刊誌に銀座の高級クラブでホステスとして働いていた過去を暴かれ[3][4][6]、1973年4月[7]、正式に芸能界を引退した[7][8]。以降2年間マスメディアから消えていたが[1][3][4][7]、渡辺淳一原作の『阿寒に果つ』を読んで感銘を受け[7][8]、1974年秋に東宝で(同作品の映画化)が決定したことから[7]、同作の田中収東宝プロデューサーに売り込みをかけ[7][8][9][10]、1975年1月17日、『阿寒に果つ』のヒロインに決定し[7][8]、芸能界の復帰が決まった[7][8][9][10][11][12]。五十嵐は「芸能界には友達もなく、もうこのまま引退でいいと思っていたけど、原作を読んで初めて仕事をやりたいと思いました。これを機会に本物の役者になりたいんです」と話した[8]。『阿寒に果つ』のヒロインに決まっていなければ、芸能界に復帰しなかったかもしれない[7]。マスメディアは「志垣太郎に会いたいから芸能界に復帰したのだろう」と見ていた[13]。また『スタア』(平凡出版)1976年4月号で自身の過去を正直に話すとし[3]、生い立ちと芸能界入りの経緯について、浦和生まれや父は電器店やレコード販売の経営などは、それまで伝えられた通りだったが、キネマ旬報社刊行『日本映画俳優全集 女優編』59頁に書かれた「高校在学中、雑誌のモデルをしているところをスカウトされ…」の件は事実でなく[1]、「川村高校2年17歳の夏に家出し、高校は(中退)した。銀座のクラブ『徳大寺』で1週間だけアルバイトをした。このとき、上条英男さんに会ったが、すぐに芸能界入りしなかった。芸能界入りの直接のきっかけは18歳の誕生日の後、1970年の秋に東映東京撮影所に遊びに行ったときに上条さんに再び会って芸能界入りした」などと話した[3]。『週刊セブンティーン』1972年3月14日号の「アイドル名鑑」には「東映ニューフェースとしてデビューして芸能界入り」と書かれている[2]。「徳大寺」の(ママ)・徳大寺美瑠は「安西マリアもレオ(風吹ジュン)も歌はヘタだったけど、踊りは上手かったわね。この二人に比べて、全然何もしなかったのが五十嵐淳子。お客さまの席についても、お話しするわけじゃないし、お酒を飲むでもない。それでいてモテたわね。私は自分でお店を経営してから12年、その間、いろんなホステスさんを見てきましたが、その中でも三本の指に入るわ、モテ方が。とにかく老いも若きも、という感じよ。私が印象的だったのは(水沢夕子)(歌手=引退)ね。彼女はものすごく堅い娘だったけど、それにも関わらずモテたのは彼女ぐらいじゃないかしら。彼女は関口宏と結婚寸前まで行ったけど、結局、久保ひろしと結婚したわけ。関口の宏ちゃんは彼女と切れてからも、芸能界に入った彼女のバックアップをしてたのよ(中略)五十嵐淳子がうちに来たのもレオと同じケースね。六本木のゲイバーの男の子と恋愛し、アパートを借りにうちに来たの。ウチの店に来てからは生活は楽になったみたい。一時、某大会社の社長が、淳子のスポンサーとウワサされていたけど、彼女はあんな年寄りもいけるのか、という感じ。淳子は完全に恋愛を割り切っていたのね。何もしないのにどうして、と思っていたんですが、お客とポチョポチョやってたようよ。とにかく淳子に限らず、彼女たちは絶対に餓死はしないでしょうね(中略)例えば、淳子など、いかにも清純そうに見えるし、事実、清純かもしれないけど(恋愛を)何の抵抗感もなくできるタイプね」などと話している[14]。梅宮辰夫は「五十嵐じゅんを銀座のクラブでスカウトしたのは僕」と述べている[4][15]。梅宮の実弟は銀座のナンバーワンスカウトと言われた人で[16]、梅宮も自身が勝手知ったる銀座のホステスをタレントとしてスカウトし、自身の主演映画に出演させ[15][17][18]、友人の上条の事務所「ジュエム・カンパニー」(後に「サンズ・カンパニー」)に預けていた[4][15]。梅宮の主演映画は"不良性感度映画"ばかりのため[15]、既存の女優は出演を嫌がった[15]。上条英男は、2020年の吉田豪の著書『超 人間コク宝』(コアマガジン)でのインタビューで[5]、梅宮が話した通り「そうなんだ。五十嵐じゅんだけは俺のスカウトじゃないんだよ、梅宮辰っちゃんの紹介。梅宮の『不良番長』に誰か女を出したとき、辰ちゃんが『おい彼女、俺の車で送ってやるから乗れ』と言ってね。サンダーバードかなんかの助手席に五十嵐じゅんがいたんだよ。『上条、悪いけどこいつ芸能界に入れてくれないか?』と言われたんだ。だけど五十嵐じゅんは渋谷のナンバーワンのホストと付き合ってたの。そいつが『週刊女性』に一番ヤバい写真を売り込んでたんだ。あれ書かれたら五十嵐じゅんの人生は終わってたよ。で『週刊女性』の編集長の前で、五十嵐じゅんの手を引っ張って窓から飛び降りようとしたの。五十嵐じゅんだけは命懸けてもいいぐらいのいい女だったの。そしたら編集長が『上条、もうやめてくれ』って俺の脚をつかんでさ、俺の目の前でフィルムを焼いてくれたの。もうこれ(タレントのマネジメント)は俺の手に負えないって悟って、それで西城秀樹に会ったとき、大きな組織に入れないとダメだと秀樹を芸映に入れたんだ」などと述べている[5]。西城秀樹は「僕のサインは、同じ事務所にいた五十嵐淳子さんが考えたんです」と述べている[19]。
出演
テレビドラマ
- 木下恵介アワー 「二人の世界」(1970年、TBS) - 昭子
- NHK大河ドラマ(NHK)
- 夏姿花の忠臣蔵(1972年6月4日、TBS)
- いま炎のとき(1972年、TBS)
- あしたに駈けろ!(1972年、CX)
- 地獄の辰捕物控(1972年、NET)
- (北都物語 - 絵梨子のとき -) 第1話〜第3話(1975年、YTV)
- 俺たちの勲章 第14話「雨に消えた・・・」(1975年、NTV・東宝) - 石島かおり
- 東芝日曜劇場(TBS系)
- 第967回「みどりもふかき」(1975年6月22日、RKB)
- 第1043回「霧の日の童話」(1976年12月5日、RKB)
- 太陽にほえろ! 第156話「刑事狂乱」(1975年、NTV・東宝)倉橋律子
- 敬礼!さわやかさん 第18話(1975年、NET)
- マチャアキの森の石松 第10話(1975年、NET)
- 事件ファイル110 甘ったれるな(1976年、TBS) - 吉川圭子
- 男たちの旅路(1976年、NHK総合) - 浜宮聖子
- 泣かせるあいつ 第11話(1976年、NTV)
- 江戸の旋風Ⅱ(1976年、CX)
- 早春物語(1976年、TBS)
- 江戸特捜指令(1976年、MBS)
- 伝七捕物帳 第136話 「孝心 涙の力石」(1977年、NTV・ユニオン映画) - おぎん
- 浮浪雲 第4話(1978年、ANB) - 久
- 日曜恐怖シリーズ「すすり泣く湖」(1978年8月6日、KTV)
- 江戸の激斗 第2話「闇にひそむ牙」(1979年、CX・東宝) - お涼
- 西部警察 第27話「傷だらけの白衣」(1980年、ANB・石原プロ) - 相川かずみ
- 旅がらす事件帖 第4話「俺もお前もはぐれ鳥」(1980年、KTV・国際放映) - さだ
- 森繁久彌のおやじは熟年 第5話「春爛漫夫婦だんご」(1981年、ANB) - 千鶴子
- あっけらかん(1982年、NTV) - 長井和江
- 火曜サスペンス劇場 「水の魔法陣」(1982年9月7日、NTV)
- (教師びんびん物語)(1988年、CX) - 国立響子
- 面影橋・夢いちりん(1988年、ANB)
- 新春ドラマスペシャル「サラリーマン忠臣蔵 華麗なる復讐」(1989年1月1日、ANB)
- 教師びんびん物語スペシャル 〜ありがとう、君たちを忘れない〜(1989年10月4日、CX)
- パパとなっちゃん(1991年、TBS) - 静江
- 誰かが彼女を愛してる(1992年、CX) - 黒沢千恵子
- 聖龍伝説(1996年、NTV) - 聖華
映画
- (ずべ公番長 夢は夜ひらく)(1970年、東映)
- 阿寒に果つ(1975年、東宝) - 時任純子
- 童貞(1975年、松竹) - 高野圭子
- 凍河(1976年、松竹) - 阿里葉子
- ひとごろし(1976年、松竹) - かね
- (少林寺拳法 ムサシ香港に現わる)(1976年、松竹) - 柴田玲子
- (粋な芝居は即興で)(1982年)
- 免許がない!(1994年、東宝) - 夕顔ルリ子
情報・バラエティ番組
- 日曜8時、笑っていただきます(1970年、TBS)
- ベスト30歌謡曲(1972年 - 1973年、NET) - 愛川欽也とのコンビで司会を担当
- クイズこれはウマい!(1988年、TBS)
CM
歌手活動
「五十嵐じゅん」として活動していた1971年に(ユニオンレコード)(テイチクのレーベル名)よりレコードデビュー。自作の詩がレコードに収録された事もある。
シングルレコード
- 幸せの行方 / あなたは魔法(US-710)71.06
- ちいさな初恋 / 美しい時間(US-721)71.10
- ちいさな初恋
- 作詞:林春生/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- 美しい時間
- 作詞:わだじゅんこ/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- ちいさな初恋
- 愛のシーズン / あふれる愛に(US-738)72.05
- ひみつのお別れ / その時あなたは(US-757)72.09
- 垣根の向う / 帰り道(US-780)72
ミニアルバム
- ひとりぼっちの詩(JUW-501)
- ※4曲入りコンパクト盤仕様。じゅんのカラーフォト・ストーリー 12Pブックレット付き。両面の「ひとりぼっちの詩」は自作詩の朗読。
- A1.ひとりぼっちの詩(その一)
- 作詞:五十嵐じゅん/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- A2.ちいさな初恋
- 作詞:林春生/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- B1.幸せの行方
- 作詞:わだじゅんこ/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- B2.ひとりぼっちの詩(その二)
- 作詞:五十嵐じゅん/作曲:鈴木邦彦/編曲:鈴木邦彦
- A1.ひとりぼっちの詩(その一)
- ※4曲入りコンパクト盤仕様。じゅんのカラーフォト・ストーリー 12Pブックレット付き。両面の「ひとりぼっちの詩」は自作詩の朗読。
アルバム
- ファースト・アルバム(1972年、ULP-2010)
脚注
出典
- ^ a b c d 『日本映画俳優全集 女優編』キネマ旬報社、1980年、59頁。
- ^ a b c d e f g 「内外人気スターからバレー選手まで 決定版STアイドル名鑑 五十嵐淳子」『週刊セブンティーン』1972年3月14日号、集英社、108頁。
- ^ a b c d e 「迫真の告白!五十嵐淳子が語った私の過去 純粋な少女時代。そして虚飾に満ちた過去から"自分"をとりもどすまで」『スタア』1976年4月号、平凡出版、74–77頁。
- ^ a b c d e 「意外! 五十嵐じゅん(19)が銀座でホステスをやっていた!なぜ?"」『週刊平凡』1971年12月2日号、平凡出版、164-166頁。
- ^ a b c 吉田豪「上条英男インタビュー」『超 人間コク宝』コアマガジン、2020年、46頁。ISBN (978-4-86653-435-0)。
- ^ 倉科遼『夜を創った男たち -黒服王 奥澤健二』実業之日本社、2008年、28頁。ISBN (978-4408411293)。「ワイド特集『ミス』と『ミスター』の人生(2)徳大寺美留の出獄後」『週刊新潮』1987年1月1日、8日号、新潮社、37–38頁。“”. アサ芸+. 徳間書店 (2017年7月24日). 2020年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。“”. 日刊大衆. 双葉社 (2015–11–04). 2021年12月日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “倒れてもいい!これ1本に全力 『阿寒に果つ』のヒロインに五十嵐じゅん”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 18. (1975年1月18日)
- ^ a b c d e f “"役者根性"で金的 五十嵐じゅん『阿寒に果つ』の主演に”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 5. (1975年2月12日)
- ^ a b “五十嵐じゅんが主役 東宝『阿寒に果つ』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年1月18日)
- ^ a b “映画初出演に生き生き カムバックの五十嵐じゅん 原作にベタぼれ 『阿寒に果つ』 実った売り込み”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 8. (1975年2月6日)
- ^ 山口健二「タレントを取巻く相姦関係の構図」『噂の眞相』1980年5月号、噂の眞相、88頁。
- ^ “結婚押し売り? 五十嵐じゅん”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 4. (1975年1月4日)
- ^ “新春ゴシップ 結婚押し売り? 五十嵐じゅん”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 4. (1975年1月4日)
- ^ 「スキャンダルの内幕 クラブ『徳大寺』のママが語るホステス時代の安西マリア」『週刊サンケイ』1978年8月31日号、産業経済新聞社、146–147頁。
- ^ a b c d e 「芸能速報版 梅宮辰夫がプールする"夜の蝶"の顔ぶれ」『週刊現代』1970年10月22日号、講談社、143-144頁。
- ^ 「"梅宮一族"の誇りにもう一ページ 『弟は銀座夜の手配師といわれる梅宮辰夫』」『週刊文春』1970年6月8日号、文藝春秋、147-149頁。
- ^ 「バックミラー」『週刊朝日』1970年6月5日号、朝日新聞社、108頁。
- ^ 「『"映画出演なんてバカバカしいわね" ―ホステス出身の山本マミが怪気炎』」『週刊明星』1970年7月9日号、集英社、157頁。
- ^ 「なぎら健壱の続2 味勝負十二番 ゲスト・西城秀樹」『小説CLUB』1999年11月号、桃園書房、11-13頁。
関連項目
- (年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10) - 1971年 - 1972年。特に、1972年は女性2位。
外部リンク
- パストーン - 自ら運営責任者を務める花と雑貨の店
- 五十嵐淳子 - NHK人物録