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二宮寛

二宮 寛(にのみや ひろし、1937年2月13日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

二宮 寛
名前
カタカナ ニノミヤ ヒロシ
ラテン文字 NINOMIYA Hiroshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1937-02-13) 1937年2月13日(86歳)
出身地 東京都
選手情報
ポジション FW
ユース
1955-1959 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1959-1968 三菱重工 45 (8)
代表歴
1957-1961 日本 12 (9)
監督歴
1967-1975 三菱重工
1976-1978 日本
1. 国内リーグ戦に限る。
(■テンプレート)((■ノート) ■解説■サッカー選手pj

来歴

慶應義塾大学在学中の1957年10月23日の北京市との試合で日本代表として初出場[1]した。大学卒業後の1959年に三菱重工に入社してサッカー部に入部し、同年開催の全日本実業団サッカー選手権大会での準優勝にも貢献した[2]。1968年から三菱の選手兼任監督に就任するも成績が振るわなかったため、同年夏より現役を退いて監督に専念した[2]。三菱ではJSL優勝2回、天皇杯優勝2回などの成績を残した。1976年6月から1978年12月まで日本代表の監督も務めた。

二宮が代表監督に就任したときは、銅メダルを獲得した68メキシコ五輪組の多くは代表を既に去っており、完全に弱体化していた。二宮に説得され、残ったエースのFW釜本邦茂も33歳となった翌77年、自ら代表から退き「誰が監督をやっても負ける」ような状態だった。

二宮本人はこの状況を「荒れ野に1人放り出されたような気分。種まきから始める決意」にて代表監督に臨んだと後述している。

サッカー指導者としての二宮は次々と改革を行った。就任直後に実行したのが、ブンデスリーガの複数のクラブに代表候補選手を短期間(結果、都合2ヶ月にも及ぶ)預けるという、分散合宿を実施した。これは、当時、「世界最強リーグ」とされていた、ブンデスリーガのクラブの高い練習レベルを日本人選手に体験させるという画期的な試みであった。

また、当時は代表選手と言えど合宿中は練習着は現在と違い、選手個々が自前の練習着を持ち込んでいた時代であったが、ここでも二宮は環境の整備にも着手し、練習着の統一・食事の改善等、“代表であることの喜び”“代表であることの重み”を選手にも考えさせるなど、現代の目から見ても理にかなった改革を次々に実施したが、JFA幹部は「甘やかしている」と見た。結果が出ず、協会の支持も失っては二宮は結果辞任する。

サッカー指導者を退いてからは、三菱自動車に移籍し、後に欧州三菱社長にも就任する。持ち前のインテリジェンスで国際派ビジネスマンとして主に欧州を股にかけ活躍した。

2000年に同社を退職後は、神奈川県葉山町に移り、コーヒーショップ「パッパニーニョ」を経営している[3]

ドイツサッカー界に知人が多く、ドイツのサッカー指導者のヘネス・バイスバイラーを信奉していた。現在のコーヒー店名は、フランツ・ベッケンバウアーが命名したものである。また、日本代表監督時代に西ドイツ分散合宿の経緯から、当時の日本代表の奥寺康彦ケルンに移籍する際の橋渡し役ともなった。

2015年9月、日本サッカー殿堂に入り掲額された[4]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 (リーグ杯)(オープン杯) 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 三菱 JSL - -
1966 -
1967 -
1968 -
通算 日本 JSL 45 8 -
総通算 45 8 -

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 12試合 9得点(1958-1961)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1957 0 0 5 0 5 0
1958 2 0 2 1 4 1
1959 9 9 7 2 16 11
1960 0 0 12 2 12 2
1961 1 0 0 0 1 0
通算 12 9 26 5 38 14

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1959年1月4日   マラヤ連邦ペナン   マラヤ 3-1 勝利 国際親善試合
2 1959年1月10日   シンガポール   シンガポール 4-3 勝利
3
4 1959年9月2日   マラヤ連邦クアラルンプール   香港 2-4 敗北 ムルデカ大会
5
6 1959年9月3日   シンガポール 4-1 勝利
7
8
9 1959年12月20日   日本東京都文京区   韓国 1-0 勝利 ローマ五輪予選

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 JSL杯 天皇杯
1967 JSL 三菱 3位 19 14 9 1 4 - 準優勝
1968 3位 18 14 7 4 3 - 準優勝
1969 優勝 24 14 10 4 0 - ベスト4
1970 準優勝 18 14 7 4 3 - ベスト4
1971 準優勝 18 14 7 4 3 - 優勝
1972 JSL1部 4位 16 14 5 6 3 - ベスト8
1973 優勝 30 18 14 2 2 3位 優勝
1974 準優勝 25 18 11 3 4 - ベスト4
1975 準優勝 29 18 13 3 2 - ベスト4

出典

  1. ^ “国際親善試合”. 日本サッカー協会. 2018年4月27日閲覧。
  2. ^ a b “二宮 寛 日本サッカーの革命児”. 三菱重工業 (2017年9月22日). 2018年4月27日閲覧。
  3. ^ “川崎F谷口職業実習、引退後はカフェ!?”. 日刊スポーツ (2010年1月16日). 2012年9月20日閲覧。
  4. ^ “日本サッカー殿堂入りの下村氏、二宮氏らを掲額”. 日刊スポーツ (2015年9月10日). 2018年4月27日閲覧。

外部リンク

  • 二宮寛 - National-Football-Teams.com (英語) 
  • 二宮寛 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語) 
  • 二宮寛 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語) 
  • 日本サッカー殿堂
  • パッパニーニョ
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