久留島 義太(くるしま よしひろ、1690年頃?[1] - 宝暦7年11月29日(1758年1月8日)[2])は江戸時代の和算家で将棋指し。通称は喜内(きない)。沾数(扇数)と号した。収入のほとんどを酒につぎ込むほどの酒好きで、自身では著書をほとんど残さなかった。その独創的な学説が伝わるのは、弟子が彼の原稿・理論をまとめたことによる。
和算家として
父は備中(現・岡山県)松山藩士の村上佐助義寄といい、主家断絶後に父子ともに浪人となり、姓を久留島と改める[3]。江戸で吉田光由著「塵劫記」を読んで独学で数学を学ぶ[4]。数学指南をしていた際に中根元圭の道場破りにあったが、中根は喜内の非凡の才を見出し後援を惜しまなかった[5]。享保15(1730)年、陸奥国磐城平藩主内藤政樹に仕え、延享4(1747年)に内藤氏が日向国延岡藩に移封された折には同地に6年間ほど赴任した[6]。
後世、関孝和・建部賢弘と共に三大和算家と称されている。レオンハルト・オイラーより早くオイラーのφ関数に言及していたとも言われる。また、ラプラスより早く余因子展開(ラプラス展開)を発見していたとも言われる[7]。
極値問題を級数展開の視点から考察し、ピエール・ド・フェルマーの方法に近いものを得た(『久氏弧背術』)。そのほか、整数方程式、無限級数、円理の研究で有名である。行列式の展開では関孝和の『解伏題之法』の誤りを訂正して、『大成算経』(関孝和・建部賢弘・(建部賢明))や『算法発揮』((井関知辰))とは異なる、正しい展開を導いている。また、立方陣はフェルマーが1640年に最初に作ったが、4本の立体対角線の成立するものを作ったのは喜内が初めて[8]。
天衣無縫で酒を好み、自らの研究成果に無頓着で、研究成果を書き記した紙で行李の裏を張ってしまったという。和算家としての業績については、知人や山路主住のような弟子により『久氏弧背術』『久氏三百解』『久氏遺稿』などの書物にまとめられた。また同僚で親友の松永良弼著『方円算経』に多く引用されている。
詰将棋作家として
喜内は指し将棋でもアマチュア高段程度の腕前があったと言われているが、特に詰将棋の作図で有名である。今日でも詰将棋の作図に使われる(趣向)「金知恵の輪」「銀知恵の輪」を考え出すなど、論理的な作風で多数の傑作を残した。また曲詰が得意であり、(添田宗太夫)・(桑原君仲)とともに江戸時代の3大曲詰作家とも呼ばれている。喜内の作品を集めた古図式として、100局を収めた『将棋妙案』と120局を収めた『橘仙貼璧』が残されている。
脚注
- ^ 小学館デジタル大辞泉. “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 朝日日本歴史人物事典. “久留島義太”. コトバンク. 2021年5月22日閲覧。
- ^ 平凡社世界大百科事典 第2版. “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 大矢真一日本大百科全書(ニッポニカ). “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典. “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 三省堂大辞林 第三版. “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
- ^ 高木茂男日本大百科全書(ニッポニカ). “久留島義太”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
参考文献
関連文献
外部リンク
- 詰将棋博物館-「将棋妙案」「橘仙貼璧」が鑑賞できる。