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乃美宗勝

乃美 宗勝(のみ むねかつ)は、戦国時代武将毛利氏小早川氏の家臣。安芸の国人領主で、居城は忠海(賀儀城)(ただのうみ かぎじょう)。沼田小早川氏の庶流浦氏の当主であり、名は浦 宗勝(うら むねかつ)とも言う。通称は兵部丞。

 
乃美宗勝 / 浦宗勝
乃美宗勝肖像画
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 大永7年(1527年
死没 天正20年9月23日[1]1592年10月28日
別名 万菊丸[1]、新四郎[1]、乃美宗勝[1]、浦兵部(浦兵部丞)、助四郎
戒名 宗勝寺殿天與勝運大居士
墓所 広島県竹原市勝運寺
福岡県福岡市東区(宗勝寺)
官位 備前守[1]、兵部丞[1]
主君 小早川隆景
氏族 (乃美氏) / 浦氏土肥系小早川氏庶流
父母 父:(乃美賢勝)[2]
兄弟 宗勝、少輔五郎[1]、三津口少輔二郎[1]、(元信)[1]
女子(白井賢胤正室)[1]、女子(村上吉充正室)[1]、女子(岡右京室)[1]
正室:(末長景盛)娘[1]、後室:仁保隆慰[1]
(盛勝)[1](景継)[1]、(景勝)、(景嘉)[1]、(景尚)[1]
(磯兼景綱)[1]、女((村上吉亮)室)など
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生涯

村上水軍調略と厳島の戦い

大永7年(1527年)、(乃美賢勝)の第4子として生まれる[1]。父は(浦元安)の養子であったが、元は小早川敬平の弟・是景から始まる乃美氏で乃美弘平の弟にあたり、その為、宗勝は乃美姓を名乗った。同じ乃美氏の乃美隆興は従兄。小早川氏の家督を継承した小早川隆景に仕えた。天文24年(1555年)の厳島の戦いでは自身の血縁関係もあり(村上吉充村上武吉とは血縁)、村上水軍を味方に引き入れるべく交渉し、毛利元就の「一日だけ軍船をお借りしたい」との言葉を伝えたとされる。村上通康らは決断を下し、宗勝は村上水軍を味方に引き入れ、厳島の戦いの勝利、そして陶晴賢の自害に一役も二役も買うこととなる。

小早川水軍の主力として活躍

その後も隆景に従い、小早川水軍の主力として各地で活動する。天文24年(1555年)10月より始まる防長経略でも水軍を率いて活動し、毛利氏が九州に進出するとそれに従い、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦では敵前に上陸し、大友方の勇将・(伊美鑑昌)(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じ、負傷するも伊美鑑昌の首を取った。永禄8年(1565年)には所領に(賀儀城)を築城し、拠点とする。なおも筑前国博多の支配権奪取を目論む毛利元就は九州侵攻を継続し、その事実上の前哨戦となった毛利氏の伊予出兵でも主力として活躍。永禄12年(1569年)の立花山城攻防戦でも活躍する。

立花山城攻略後はその城代となり、筑前防衛の主将として行動した。しかし、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘長門国に侵入(大内輝弘の乱)、毛利領内は大混乱となり、毛利軍主力は大内輝弘征伐のために立花山城から撤退することとなった。わずかな兵とともに殿として立花山城に残った宗勝であったが、翌永禄13年(1570年)に開城し、戸次鑑連に城を明け渡した。開城の約束通り、毛利軍は堂々と安芸へ撤退し、戸次鑑連もそれを追撃することはなかった。同年、所領に勝運寺を建立。自身の菩提寺とした。

備中常山城攻撃と鶴姫

天正3年(1575年)は備中国へも転戦し、ここでも主力として活動している。上野隆徳が守る備中常山城を攻撃した際に、落城寸前の城内から鶴姫(上野隆徳の妻、三村元親妹)が34人の侍女を率い、自ら出陣して猛攻を仕掛けた。そのあまりの突撃に毛利軍も驚いて壊走した。宗勝は鶴姫に見つかり、良き相手と勝負を挑まれたが、「女とは戦えぬ」と説得。勝負を諦めた鶴姫は伝家の宝刀である「国平の太刀」を宗勝に渡し、城内へ戻って自害した((常山合戦))。

木津川口の戦い

天正4年(1576年)5月には毛利と同盟する播磨英賀の領主である三木通秋の所領に入り、三木軍と合流して5,000の兵で播磨国衆の中でも親織田派であった小寺孝高と交戦するも敗北した(英賀合戦)。同年7月の第一次木津川口の戦いでは総大将として出陣し、織田氏配下の水軍と激突し、焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により織田水軍は壊滅。無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功している。しかし、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、鉄甲船を使用した九鬼水軍の前に敗北を喫した。天正7年(1579年)に別所長治が籠城する三木城への兵糧搬入を成功させている。

天正10年(1582年)に、織田氏羽柴秀吉)の調略工作が宗勝に及んだ模様であるが、宗勝本人はこれを拒絶したものの、嫡男の(浦盛勝)が秀吉方から「盛勝単独の同心でも歓迎する」などの書状を受けるなど不穏な動きを見せた[3]。主君の小早川隆景はこれに素早く反応し、同年に盛勝は急死している。暗殺説も囁かれる、謎の死であった。

朝鮮出兵

天正20年(1592年)、豊臣秀吉文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣した。しかし現地で病を得て、帰国後の同年9月23日に、立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋で死去。法名は宗勝寺殿天與勝運大居士。

毛利家の勇将

大友戦においては毛利軍のなかで最も活躍し、大友氏の部将戸次鑑連は宗勝を高く評価した。また生涯に亘って毛利元就、小早川隆景、毛利輝元、豊臣秀吉の4人から戦功ありとして15通の感状を受け取った。

家系

宗勝の子孫は、直系の子孫が浦姓を、傍系の子孫が案浦(あんのうら)と言う苗字を称していると言われている。案浦と言う苗字は宗勝寺住職の談話、福岡県糟屋郡に残る石碑などから、「宗勝の側室の子の系統であることから浦を名乗る事が出来なかった子孫が、宗勝を偲び、安芸を安木と読み替え『安木の浦』から誕生した」と伝承されている。案浦姓は福岡県糟屋郡にしか存在しない100戸余りの少ない姓である。毛利家は守護大名の墓守(大内盛見公)の菩提を弔うために糟屋郡粕屋町の泉蔵寺に案浦姓を配備し長く護持繁栄とした。今もなをつづく繁栄は盛見公なしでは語れない。

宗勝の直系の末裔は、江戸時代半ばに嫡流(宗勝の次男・景継流)が絶え、度々他家から養子が入っている(詳しくは(浦氏の系図)を参照)。幕末の長州藩家老・(国司就孝)の次男(=浦元襄)もその一人である。

墓所

  • 宗勝寺(福岡県東区) - 1569年に立花山城代を務めていた時に、亡妻を弔うために建立。
  • 勝運寺(広島県竹原市) - 1570年、本領の忠海に建立。

勝運寺には宗勝の遺髪が収められているとされ、宗勝寺には妻と宗勝自身の墓碑がある。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 田村哲夫編修 1980, p. 158.
  2. ^ 田村哲夫編修 1980, p. 157.
  3. ^ 小川 2020, p. 117.

参考文献

  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。(全国書誌番号):(73004060)。  国立国会図書館デジタルコレクション
    • 復刻 田村哲夫編修 編「寄組浦家」『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修(復刻版)、マツノ書店、1980年11月。 NCID BN0189824X。OCLC 674504899。(全国書誌番号):(81035962)。 
  • 小川雄『水軍と海賊の戦国史』(平凡社、2020年)

関連項目

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