初代 中村獅童(しょだい なかむら しどう、1929年(昭和4年)9月28日 - 2008年(平成20年)10月11日)は、歌舞伎役者、映画プロデューサー。
人物
三代目中村時蔵の三男として東京府東京市に誕生。本名は小川 三喜雄(おがわ みきお)。
兄に二代目中村歌昇と四代目中村時蔵がおり、弟に萬屋錦之介と中村嘉葎雄がいる。
かつては中村獅童を名乗る歌舞伎役者だったが、十代前半の頃に大幹部である役者が弟たちに説教し「だからお前達兄弟はダメなんだ」と言ったのを見て「だったら俺がやめてやる」とかつらを投げつけたという。母親が慌てて謝罪に行ったが、三喜雄は謝罪を拒み、そのまま廃業となる[1]。
その後は銀行員として働いていたが、俳優転向した弟の萬屋錦之助、中村嘉葎雄が東映時代劇で人気を博し、母親から「(役おさめや出演料を担当する)奥役[2]というのは大事な仕事」と説得された。そのため東映に入社し、プロデューサーとなって弟たちのバックアップを行った[3]。東映時代劇が衰退し、任侠物・ヤクザ物全盛の時代となると映画界を退き、東映を退職。英語が堪能だったため、輸入会社を経営していたという[4]。
長男の幹弘は長じて歌舞伎役者となり、自らの旧名跡を襲名させて二代目中村獅童とした。息子のために有限会社中村獅童事務所を設立し、会長として采配を振った。
脚注
- ^ 歌舞伎座の怪人(二代目中村獅童著)168p. 講談社. (2009年3月12日)
- ^ 歌舞伎美人【歌舞伎いろは】想い出の写真:十三代目仁左衛門丈との1枚 現在でいうプロデューサー。演目を考え、座組・配役を決め、役者にオファーして承知してもらうことを「役納め」と言い、電話のない時代は役者の自宅に出向いたという。
- ^ 歌舞伎座の怪人(二代目中村獅童著)133p. 講談社. (2009年3月12日)
- ^ 歌舞伎座の怪人(二代目中村獅童著)173-173p. 講談社. (2009年3月12日)
- ^ “小川三喜雄氏死去 元映画プロデューサー”. 共同通信社. 47NEWS. (2008年10月15日) 2013年1月18日閲覧。
外部リンク
- (小川三喜雄) - 文化庁日本映画情報システム