下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月16日[3] - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の実業家。
経歴
長崎県諫早市出身[1]。下村代助の三男[2]。生家は小さな農家である。1905年に父の代助は家族を連れ佐世保に移住し、市役所の臨時雇いとして働いた[1]。
家が貧しかったため彌一は小学校卒業後、佐世保海軍工廠の見習工になった[1]。しかし進学が諦め切れず佐世保中学に編入学する[1]。1919年に旧制第五高等学校文科甲類に入学し、1922年卒業[4]。旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法科で学び、1925年に共保生命保険(後に野村生命保険→東京生命保険)に入社[3]。同社では1947年に取締役となり、1952年に常務取締役兼契約部長に就任した[3]。
その後に不二サッシに転じて副社長を務め、東亜航空社長を経て[5]、1971年に東亜航空と日本国内航空の合併により創業した東亜国内航空(後に日本エアシステム)の初代会長に就任[6]。1年後の1972年、東亜国内航空の経営立て直しの為に社長に就任した[5]。
人物
旧制五高時代は第58代内閣総理大臣を務めた池田勇人、昭和時代の文部大臣・大牟田市長を務めた荒木萬壽夫と同級生であったという[8]。母校である旧制第五高等学校の寮歌である『武夫原頭(ぶふげんとう)に』をこよなく愛し、日本寮歌祭にも良く参加していたという[9]。晩年は旧制高校の教育や精神を今に活かすことを訴えて『日本の高等教育を考える会』の活動に参加していた[9]。
親族
下村家について、ファミリーヒストリーの取材に彌一の息子の由一は「ほったて小屋で梁がむき出し。朝起きると布団の上にアオダイショウがおっこってくる。小作人だったと思うんですが、土地も捨てて佐世保にでた。」などと述べている[1]。彌一の家族は妻、長女・敬子(編集者坂本一亀の妻)[1]、息子・由一[2](千葉大学名誉教授)がいる。音楽家の坂本龍一は孫に当たる[1]。
著書
- 『わが師わが友』
脚注
- ^ a b c d e f g h “ファミリーヒストリー 坂本龍一〜父との葛藤 福岡藩黒田家に仕えた先祖〜”. TVでた蔵. ワイヤーアクション (2018年4月23日). 2023年4月12日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第13版 上』シ93頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月13日閲覧。
- ^ a b c d 『昭和人名辞典』Ⅱ 413頁 日本図書センター 1993年刊
- ^ 五高の歴史~卒業生~ 熊本大学五高記念館
- ^ a b 『下村社長きまる 東亜国内航空』 讀賣新聞 1972年8月31日朝刊6面
- ^ JAL's History (JAS) 1952-2004 日本航空公式サイト
- ^ 『下村弥一氏』 朝日新聞 1990年4月7日朝刊 31面
- ^ 池田元首相の写真を常設展示…熊本大学 くまもと経済 2013年11月28日
- ^ a b 【旧制高校 寮歌物語】(32)「剛毅木訥」五高のテーマソング 産経新聞 2013年3月17日
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。