生涯
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剛勇に優れ、父・一色義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。
天正7年(1579年)、義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり、抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後を長岡氏(細川氏)と分割統治した。
中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後(現在の京丹後市)を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として、天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国・但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく、旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。また、国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し、丹後北半国を統治した。
天正10年(1582年)6月、山崎の戦いでは直接の上役である明智光秀に味方する。一方、長岡氏は上役である明智光秀に背いた。光秀は山崎の戦いに惨敗して討ち取られ、これがその後の義定の立場を決定的に悪くする要因となった。
戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、9月に南丹後の長岡氏によって、長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。
備考
脚注
- ^ (日野和煦)『(西條誌)』 巻之十二