一柳 頼徳(ひとつやなぎ よりのり)は、伊予国小松藩3代藩主。直卿(なおあきら)の名でも呼ばれる。能書家として知られた。
生涯 寛文6年(1666年)3月18日、第2代藩主・一柳直治の長男として小松に生まれる[1]。母は側室の正寿院。
延宝4年(1676年)、11歳で将軍徳川家綱に初謁[1]。宝永2年(1705年)閏4月15日、父の隠居に伴い、40歳で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)4月、従五位下因幡守に叙任[1]。同年9月には駿府加番となった。
頼徳に男子はなく、初めは三弟(正室所生)の直堅を養嗣子とし、将軍への御目見得も済ませていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)4月に早世している。その後正徳4年(1714年)9月に甥の頼邦(次弟・一柳治良の長男)を養嗣子に迎えている。
享保9年(1724年)10月4日、江戸にて死去、享年59[1]。江戸品川の寿昌寺に葬られた[1]。跡は養嗣子の頼邦が継いだ。
人物・逸話 - 詩歌に秀で、書家として諸侯随一とされ、多くの墨跡を遺した。その書は手本として将軍家に納められたという[2]。
- 宝永6年(1709年)、因幡守叙任に際して描かれた「一柳直卿公寿像」(一柳家所有、(小松温芳図書館)寄託)は、2007年(平成19年)3月に西条市有形文化財に指定された[4]。小松藩主の肖像画としては唯一のものである[4]。
系譜 - 父:一柳直治(1642-1716)
- 母:正寿院
- 室:不詳
- 養子
脚注 [脚注の使い方]
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.160。
- ^ a b “一柳頼徳”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月14日閲覧。
- ^ a b “支所だより 小松総合支所”. 広報さいじょう 2013年12月号. 西条市. 2014年4月1日閲覧。
参考文献外部リンク - デジタル版 日本人名大辞典+Plus『(一柳頼徳)』 - コトバンク
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