生涯
寛永19年(1642年)5月4日、初代藩主・一柳直頼の長男として江戸で生まれる。母の青龍院は園部藩主小出吉親の娘。正保2年(1645年)、父の死去により、4歳で跡を継ぐ[1]。慶安4年(1651年)、将軍徳川家綱に初謁[1]。万治3年(1660年)12月、従五位下山城守に叙任[1]。寛文元年(1661年)に初めて国入りを果たし[1]、寛文4年(1664年)に封地の御朱印状を発給されている[1]。
寛文年間から元禄年間(1661年 - 1704年)にかけて、広江村(現在の西条市広江)で干拓を行うなど[3]、300町歩の新田開発を行った。また、直治の時代に大洲藩領から小西伝兵衛を招いて御用紙屋とし、紙漉に従事させた[4]。小西伝兵衛にはじまる小松藩での和紙生産はその後発展を遂げ、紙は藩の専売品として藩財政を支える産品の一つになる[4]。
元禄6年(1693年)には、除封された元陸奥大久保藩主本多政利の子・(本多政真)[注釈 1]を預かっている[1][5]。
宝永2年(1705年)閏4月15日、長男・頼徳に家督を譲って隠居[1]。
正徳6年(1716年)3月15日に小松にて死去した。享年75[1]。
備考
- 『土芥寇讎記』では統治者として高評価をされており、殺生を嫌ったと記されている。
系譜
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百四「一柳」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.160。
- ^ a b c d 一柳貞吉 1933, p. 51.
- ^ “一柳直治”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月1日閲覧。
- ^ a b “和紙の起こりとその先覚者たち”. 西条市 - 水の歴史館. 西条市役所環境衛生課. 2014年4月1日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.636。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国会図書館所蔵写本『寛政重修諸家譜 1520巻 (161)』103/154コマ。
参考文献
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『(一柳直治)』 - コトバンク