ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン男爵(ロシア語: Роман Романович Розен, ラテン文字転写: Roman Romanovitch Rosen, 1847年2月24日 - 1921年12月31日)は、帝政ロシアの外交官。日露戦争時の駐日ロシア公使、駐米大使。
人物・略歴
ローゼン家は、代々音楽家や軍人、フランス元帥やオーストリア陸軍元帥などを輩出してきたバルト・ドイツ系ロシア貴族の家系で、1812年ボロジノの戦いでアストラハンスキー連隊を率いて戦ったことがバルクライ・ド・トーリ将軍配下の(ボロージン)少将の公式報告書に記載されている。1905年7月5日付けのワシントンポスト紙はレポートの中でローゼン家が、スウェーデンに起源を持つことを紹介している。
ローゼンはロシア外務省に入省し、外交官として在外公館に赴任し、公使として日本およびアメリカ合衆国に赴任した。駐日公使としては、1897年から1898年、間をおいて1902年から1904年まで着任した。1898年4月には、東京で西徳二郎外相とのあいだで西・ローゼン協定をむすんだ[1]。
日露戦争開戦前夜に日本側と交渉に当たっている。ローゼン自身は、戦争回避の立場に立っていたとされるが、皇帝ニコライ2世および本国政府の訓令に従い、対日交渉は強硬なものとあった。ポーツマス講和会議では、ロシア側全権代表となったセルゲイ・ウィッテを補佐し、日本側と交渉に当たった[2][注釈 1]。その後、司法大臣としてシベリアにおける司法制度を改革した。また、国家評議会議員となった。
1917年のロシア革命勃発後はスウェーデンを経てアメリカ合衆国に亡命し、ヨーロッパの外交と政治について、アメリカのサタデー・イブニング・ポスト紙に評論を載せ、これは後に1919年から1921年に『外交官生活40年』のタイトルで出版された。1921年にニューヨークで交通事故死した。
子に1人娘エリザヴェータ・ロマノワ(1900年前後?-1972年)[4]がいる。西条八十は日記のなかで彼女について「青白い蛾で捏つた彫刻のやうな姿」と評しており、軽井沢にあった別荘の様子も記している[注釈 2]。
脚注
注釈
- ^ ローゼンは、ロシア皇帝ニコライ2世から疎まれていたウィッテが主席全権と決まったとき、これを歓迎し、「彼ウィッテは、本国政府の思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシアの真の利益を犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人の人物である」と述べたといわれている[3]。
- ^ 「私には、それよりも彼につき合って踊った有名なあの故ローゼン男の娘の青白い蛾で捏つた彫刻のやうな姿が眼に残ってゐる。希臘的なクリイカットなあの顎のあたりの線が又なく好ましく想ひ出される。今日は散歩の序に、ミス・ローゼンの別荘の傍を通ってみた。青く塗った小さな小綺麗な洋館であった。窓下には紅い蜀葵が咲いて、奥から快いピアノの音が洩れてゐた。」(西条八十『軽井沢日記抄』、1922年)[5]
出典
- ^ 古屋(1966)pp.29-30
- ^ 猪木(1995)pp.56-62
- ^ 半藤(1983)p.107
- ^ ”Elizabeth Romanova Baroness Rosen”ancestry
- ^ 西條八十『西條八十全集: 随筆・小說』(国書刊行会, 2001年)p.73
参考文献
関連項目
外部リンク
- ロマン・ローゼン対ルーズベルト大統領(ロシア語)
公職 | ||
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先代 アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル アレクサンドル・イズヴォリスキー | 駐日ロシア公使 1897年 - 1899年 1902年 - 1904年 | 次代 アレクサンドル・イズヴォリスキー (ユーリ・フメーチェフ) |
先代 (アルトゥール・カッシーニ) | 駐米ロシア大使 1905年 - 1911年 | 次代 (ゲオルギー・バフメテフ) |