サー・ロバート・フィルマー(英語:Sir Robert Filmer、1588年頃 - 1653年5月26日)は、イングランド王国ケント・(イースト・サットン)出身の政治思想家。
ロバート・フィルマー | |
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生誕 | Robert Filmer 1588年頃 イングランド王国ケント・(イースト・サットン) |
死没 | 1653年5月26日 イングランド王国 |
職業 | 政治思想家 |
著名な実績 | 主著『(パトリアーカ)(Patriarcha)』[1]に於いて王権神授説の提唱 |
影響を受けたもの | アリストテレス、トマス・ホッブズ、ジョン・ミルトン、フーゴー・グローティウス |
影響を与えたもの | ジョン・ロック、アルジャーノン・シドニー、(ジェームズ・ティレル) |
配偶者 | Anne Heton |
子供 | 4人 |
1680年に公判されたフィルマーの主著『(パトリアーカ)(Patriarcha)』(日本語では『家父長論』などと訳される)[1]は『旧約聖書』を典拠に、神が人類の祖先であるアダムに対して家族や子孫などを支配する権利を授け、その権利は代々の家父長に相続されていくのは王権もこの説に由来する[2][3]として絶対君主制の基礎付けとなり、王権神授説の代表的な文献となっている[4]。
熱心な王党派で、ピューリタン革命が起こった際には絶対王権の擁護に努めたため、投獄や邸宅の没収を何度もされ、邸宅に至っては10回以上没収されている。
生涯
1588年頃、イングランド王国ケントのイースト・サットンに父サー・エドワード・フィルマー(Sir Edward Filmer)と母エリザベス・フィルマー(Elizabeth Filmer)の元に長男として生まれる。
1604年、トリニティ・カレッジに入学するが、学位は修得せず、翌年1605年にはリンカーン法曹院に通った。
1618年8月8日にアン・ヘトン(Anne Heton)と結婚。セント・レオナルド教会で挙式が行われ、後に3人の息子と1人の娘を育てた。
1629年11月に父エドワードが亡くなると、フィルマーは父の財産を引き継ぎ、1630年代には郡の役員として働いた。この頃より後の主著となる『パトリアーカ』を執筆し始めたとされる[5]。
1641年にピューリタン革命が起きると、熱烈に王党派として国王チャールズ1世を支持したため、1643年に投獄された。1647年までには釈放されたとされる[5]。
1653年5月26日に亡くなる。
主な著書に、1652年に書かれた『政府起源論』や『制限王政の無政府状態』(1648年)、『絶対王権の必要』(1648年)などがある[6]。
脚注
- ^ a b 『ペイトリアーカ』などの表記揺れがある。日本語では『家父長論』や『家父長権論』などの訳があるが、本項目では『パトリアーカ』と表記する。
- ^ 万有百科大事典 1975, p. 533.
- ^ 大日本百科事典 1967, p. 404.
- ^ 世界大百科事典 1972, p. 206.
- ^ a b フィルマーとは - コトバンク、2014年4月1日閲覧。
- ^ いずれの訳は(半田輝雄)の訳に従った。
参考文献
- (臺靖)、(鈴木敏平)監修 著、(全国歴史教育研究協議会) 編『世界史B用語集 改訂版』(改訂版)山川出版社(原著2008-1-31)。ISBN (978-4634033023)。
- (松村赳著)、貝塚茂樹、堀米庸三監修 著、相賀徹夫編 編『万有百科大事典 9 世界歴史』(初版)小学館〈日本大百科全書〉(原著1975-8-20)。
- (松村赳著) 著、(澤田嘉一)編 編『大日本百科事典 15 はんーふら』小学館〈日本大百科全書〉(原著1967年11月20日)。
- (半田輝雄著) 著、林達夫編 編『世界大百科事典 26 ヒヤーフヨ』(1972年版)平凡社〈世界大百科事典〉(原著1972-4)。
- 今井宏著 著、(鈴木泰二)編 編『グランド現代百科事典 25 ヒモーフラム』学習研究社(原著1983-6-1)。
- (仲村計美著) 著、鈴木勤編 編『世界文化大百科事典 9 ハツクーホキン』世界文化社(原著1971年)。
- 世界大百科事典 第2版、マイペディア、大辞泉、大辞林『(フィルマー)』 - コトバンク
関連項目
- トマス・ホッブズ - イギリスの哲学者。フィルマーが彼について批判している。
- フーゴー・グローティウス - オランダの法学者。国際法の父として名高いが、フィルマーは批判している。
- ジョン・ロック - イギリスの哲学者。著書『統治二論』でフィルマーの著書『パトリアーカ』を強く批判している。