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ロナルド・フレデリック・「ロニー」レーン(Ronald Frederick "Ronnie" Lane, 1946年4月1日 - 1997年6月4日)は、イギリスのミュージシャン。スモール・フェイセス(1965-69)およびフェイセズ(1970-75)の創立者、ベーシストとして最も知られる。彼は1973年にフェイセズを脱退し、自らのバンド、(スリム・チャンス)を結成した。
来歴
自身のバンド フェイセズを人気絶頂期に脱退。ソロとして活動を始める。(スモールフェイセズ・フェイセズ 参照) シングル「ハウ・カム」「密漁者」の成功後、彼はアイランド・レコードに移籍し『スリム・チャンス』と『ワン・フォー・ザ・ロード』をリリースする。1976年にスモール・フェイセズの再結成ライヴに誘われるが、二度のリハーサル後に参加を取りやめる。「後にスモールフェイセズ時代、スティーブに出て行かれた、今度は俺から出てやってみせたんだ、とロニーは語っている」しかしながら再結成スモール・フェイセズの一員としてアトランティック・レコードとの契約が成立していたため、WEA/アトランティックはレコードリリースの義務があると彼に通知した。ザ・フーの(ピート・タウンゼント、プロデューサー、グリン・ジョンズ)が彼に手を貸し、二人名義でのアルバム『ラフ・ミックス』を録音し1977年にリリースした。同作のリリースでレーンはWEAとの契約義務から解放された。このアルバムではエリック・クラプトン チャーリー・ワッツ イアン・スチュアートなど豪華メンツが参加する。後にプロデューサーを務めたグリン・ジョンズは過去関わったアルバムの中でのお気に入りの一枚と語っている。
レーンが彼の母親も苦しめられた多発性硬化症と診断されたのは『ラフ・ミックス』の録音直後であった。当初病状は軽度であり、彼はエリック・クラプトンと電車を貸し切りヨーロッパツアーを行った。「気ままに旅をして気ままにライブをやって、駅前でギターケースをひろげ2人でストリートギグもやったよ」とクラプトンは回想している。またエリックはロニーのギターストロークが弦に当たっていない、ロニーの異変を感じていた。 ロニーとの出合いはその後のエリック・クラプトンにとって 人生観、音楽に大きな影響を与える事となる。クラプトンの「ワンダフル トゥナイト」はロニーの家の庭で焚き火をしながらロニーの前で初めて歌われた。 その後もロニーは曲を書き、(エリック・クラプトン、イアン・スチュアート、ヘンリーマッカローク)らと共にレコーディングを行った。その彼のラスト・アルバム『シー・ミー』はエリック・クラプトンと共に作った曲が何曲か収められている。
1980年代になると病状が悪化する。1983年9月、多発性硬化症の研究機関を支援するためのチャリティ・コンサート「ARMSコンサート」を提唱。このコンサートにはビル・ワイマンやチャーリー・ワッツなども参加、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの所謂3大ギタリストが「いとしのレイラ」で共演したことも話題となった。コンサートの終盤にはレーン本人もステージに登場した。1990年には、旧友イアン・マクレガンと共に最初で最後の来日公演を行った。
ディスコグラフィ
- エニィモア・フォー・エニィモア - Anymore For Anymore
- スリム・チャンス - Ronnie Lane's Slim Chance
- ワン・フォー・ザ・ロード - One For The Road
- シー・ミー - See Me
- ユー・ネヴァー・キャン・テル - You Never Can Tell (The BBC Sessions)
- Kuschty Rye (The Singles 1973-1980)
- ティン・アンド・タンバリン - Tin and Tambourine (compilation)
- ロケット69 - Rocket 69 (Live on German TV)
- Live In Austin
- ラフ・ミックス - Rough Mix (ピート・タウンゼントとの共作)
- Mahoney's Last Stand (ロン・ウッドとの共作)
外部リンク
- www.ronnie-lane.com The Official Web Site
- Video tribute to Ronnie Lane
- Small Faces on Room for Ravers