リチャード・バージン(Richard Burgin, 1892年10月11日 - 1981年4月29日)は、ポーランド出身のヴァイオリン奏者。本名はリヒャルト・モイセイヴィチ・ブルギン(Richard Moiseyevich Burgin)[1]。妻はヴァイオリン奏者のルース・ポッセルトで、息子は作家の(リチャード・バージン)。 娘は作家兼マサチューセッツ大学アマースト校ロシア語の教授である(ダイアナ・ルイス・バージン)で、彼女が出版した物語詩"Richard Burgin: A Life in Verse" (Slavica Pub, 1989; (ISBN 0-89357-196-2))は、父の生涯について触れられている[2]。
生涯
シェドルツェの生まれ。
6歳でヴァイオリンをはじめ、ワルシャワでイシドール・ロットに手ほどきを受けた。1903年には短期間ベルリンのヨーゼフ・ヨアヒムの指導を受け[3]、1904年にはワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に独奏者として出演した。1908年にはペテルブルク音楽院でレオポルト・アウアーに師事し、1912年に卒業した[3]。1914年にはワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、翌年にはクリスチャニア音楽協会、1916年から1919年まで(ストックホルム音楽協会)のそれぞれのコンサートマスターを務めた。1920年にアメリカに渡ってボストン交響楽団のコンサートマスターとなった[4]。セルゲイ・クーセヴィツキーが1923年にセルゲイ・プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番の初演を指揮した時には、オーケストラのコンサートマスターを任され、1924年4月24日アメリカ初演の際には独奏を担当した[5]。
1927年からクーセヴィツキーのアシスタントとして指揮をするようになり、1953年からニューイングランド音楽院のオーケストラを指揮し、ポートランドのメイン交響楽団などにも客演するようになった。ニューイングランド音楽院では、ヘルベルト・ブロムシュテットを指導しており、ブロムシュテットはバージンについて「すばらしい音楽家でした」と回想している[6]。1962年にボストン交響楽団のコンサートマスターを引退し、フロリダに移住。妻と共にフロリダ州立大学で教鞭をとり、地元の室内管弦楽団などを指揮したり、妻と弦楽四重奏団を作ったりした。
参考文献
- ヘルベルト・ブロムシュテット『ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命』力武京子訳、樋口隆一日本語版監修、アルテスパブリッシング、2018年、(ISBN 978-4-86559-192-7)。
脚注
- ^ [1]
- ^ RICHARD BURGIN: A LIFE IN VERSE by Diana Lewis Burgin. Foreword
- ^ a b c Baker's Biographical Dictionary of Musicians, Seventh Edition, Revised by Nicolas Slonimsky. New York: Schirmer Books, 1984, p. 379
- ^ Times magazine
- ^ [2]
- ^ ブロムシュテット (2018)、113-114頁。