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ラテン帝国

ラテン帝国
Latin Empire
(国旗) (国章)

赤の領域がラテン帝国。緑はエピロス専制侯国、青はニカイア帝国、紫はトレビゾンド帝国
※国境は明確ではない。

ラテン帝国(ラテンていこく、英語:Latin Empire / Latin Empire of Constantinople)とは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から奪ったコンスタンティノープル第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家である。正教会のローマ皇帝に代わってカトリックの皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認めるローマ帝国になろうとしていた。

第4回十字軍は当初、ムスリムが支配する都市エルサレムを取り返すために召集されたが、十字軍による東ローマの帝都コンスタンティノープル略奪において、一連の経済的そして政治的事件は頂点に達した。本来、計画はアレクシオス3世アンゲロスによって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロスを復位させるためのものであった。十字軍はイサキオスの息子アレクシオス4世アンゲロスによって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。十字軍がコンスタンティノープルに到達すると状況は直ぐに危険なものへ一変し、イサキオスとアレクシオスが短期間統治したが、十字軍が望んだような支払いを受け取ることはなかった。1204年4月、彼らはコンスタンティノープルの莫大な富を占拠し略奪した。

十字軍はフランドル伯ボードゥアン1世を初代皇帝に選出し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニを任じて、ラテン帝国を樹立した[2]。旧東ローマ領を封土として付与された十字軍諸侯らは、ラテン皇帝に忠誠を誓った[3]。ラテン帝国の支配権は、ニカイア(ラスカリス家)(英語版)トラブゾンコムネノス家に率いられた(残存国家)(英語版)により直ちに楯突かれた。1224年から1242年には、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカステッサロニキからラテン帝国に異を唱えた。ラテン帝国は第4回十字軍の後、旧東ローマ領に成立した他のラテン勢力、特にヴェネツィア共和国に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、短い初期の軍事的成功の後は北方の第二次ブルガリア帝国や東ローマの継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、着実に衰退していった。最終的には、1261年ミカエル8世パレオロゴスニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。最後のラテン皇帝ボードゥアン2世は収監されたが、複数の詐称者とともに皇位は14世紀まで存続した。

「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。東ローマ帝国はフランコクラティア(ギリシア語:Φραγκοκρατία、"フランク人の支配")、あるいはラテノクラティア(Λατινοκρατία、"ラテン人の支配")としてラテン帝国に言及し、ラテン皇帝自身は一般的に、imperium Constantinopolitanum(Empire of Constantinople、コンスタンティノープル帝国)やimperium Romaniae(Empire of Romania、ロマニア帝国)、imperium Romanorum(Empire of the Romans、ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。ロマニア(ローマ人の土地)という用語は数世紀にわたり、自国のために東ローマ帝国臣民によって非公式に使われた。

歴史

起源と成立

 
1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲
 
建国者ボードゥアン9世(1世)像

コンスタンティノープル包囲戦の後、十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した[4]。1204年10月に署名された(東ローマ帝国領分割条約)(英語版)では、クレタ島などの島嶼部を含む帝国領の8分の3がヴェネツィア共和国のものとなった[5]。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。

さらなる公国はニカイア、ニコメディアアラシェヒル(ネオカストラ)(英語版)といった小アジアで計画されたが、そこにてニカイア帝国が誕生したため、これらの公国は仮想のままであった[6]。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだったブロワ伯ルイ1世アドリアノープルの戦いにて死亡し[7]、初代皇帝ボードゥアン1世もブルガリアとクマン人の連合軍に敗れて捕虜となった[8]。ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった[9]。第2代ラテン皇帝アンリ1世は、1205年の(アドラミュティオンの戦い)(英語版)にて地方有力者であった(テオドロス・マンガファス)(英語版)を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった[10]。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、聖ヨハネ騎士団(4分の1)とその他の封建家臣の間で分割された。ここでの「公国(duchy)」という用語は、旧東ローマにて通常ドゥクスによって管理されたテマ制という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する[11]

一方、ラテン帝国の成立を受けた第二次ブルガリア帝国は、当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアのカロヤン・アセンは東ローマ貴族とトラキアで同盟を組み、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した[12][13]。1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発した上述のアドリアノープルの戦いは、新たに樹立されたラテン帝国への打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った[14][15]。予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ[16]

1206年(ルシオンの戦い)(英語版)などでも敗戦が続いたラテン帝国は、東トラキアの多くの街をブルガリアに占拠されたが、(フィリッポポリスの戦い)(英語版)のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。

その後、(リュンダクス川の戦い)(英語版)でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、ニンファエウム条約にてニカイア帝国との国境を画定し[17]、同じころにブルガリアとも講和条約を締結した[8]

衰退と崩壊

1217年、ローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていたピエール2世・ド・クルトネーは、エピロス専制侯国のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され[18]、2年後に獄中で死亡した。1218年にはブルガリア皇帝に即位したイヴァン・アセン2世がラテン帝国との同盟を結び、1221年にラテン側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した[19]

1222年、ニカイア帝国にてヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスが即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝テオドロス1世ラスカリスの弟はそれを妨げようと試みた[20]。しかし、失敗した彼はラテン皇帝ロベール1世に対して派兵を依頼し、1225年(ポイマネノンの戦い)(英語版)が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した[21]1223年にはエピロス専制侯国にサロニカを奪われた[19]

1228年までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年の皇帝ボードゥアン2世イヴァン・アセン2世の娘ヘレナの婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン側はフランス人貴族ジャン・ド・ブリエンヌに摂政期を提供し[22]、彼の娘がボードゥアンと結婚した。

ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、1235年コンスタンティノープル包囲戦を仕掛けるも失敗し、1237年にジャン・ド・ブリエンヌが死亡すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した[23]

1241年ごろにはモンゴル帝国による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている(詳細はモンゴルのラテン帝国侵攻を参照)。

その後、ニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月、ヴェネツィア海軍の留守中にニカイア軍がコンスタンティノープルに攻め入ったことで、ラテン帝国は崩壊した(コンスタンティノープルの回復 (1261年)[24]。ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され帝都を脱した[25]。ボードゥアンはその後ローマに赴き、教皇ウルバヌス4世が将来彼を皇位に就けることを約束したが[26]、ウルバヌスは間もなく死亡し彼も復位することはなかった。

年表

  • 1204年 - フランドル伯ボードゥアン9世が、5月16日に初代皇帝ボードゥアン1世として即位。
  • 1205年 - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
  • 1206年 - ボードゥアン1世の弟のアンリ1世が皇帝に即位。
  • 1216年 - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
  • 1217年 - アンリ1世の後を継いだフランス人のピエール2世・ド・クルトネーがローマからコンスタンティノポリスへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国に捕らえられる。
  • 1225年 - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
  • 1242年 - モンゴル帝国軍に大敗。後にモンゴル帝国の首都カラコルムに使者を派遣する。
  • 1261年 - ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、7月25日の夜中にニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝ボードゥアン2世・ド・クルトネーは逃亡。ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した。

脚注

注釈

  1. ^ 東ローマ帝国は1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻した。1579年オスマン帝国ナクソス公国を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残り、1383年ジャック・デ・ボーが死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続けた。

出典

  1. ^ a b c d Matanov, Hristo (2014). В търсене на средновековното време. Неравният път на българите (VII - XV в.)(in Bulgarian). IK Gutenberg. ISBN (9786191760183) 
  2. ^ へリン 2010, p. 349.
  3. ^ 井上 2005, p. 194.
  4. ^ へリン 2010, p. 367.
  5. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 184.
  6. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–310.
  7. ^ Hendrickx 2015, p. 308.
  8. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 123.
  9. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–309.
  10. ^ Hendrickx 2015, p. 309.
  11. ^ Hendrickx 2015, pp. 305–306, 309.
  12. ^ Andreev & Lalkov 1996, p. 167.
  13. ^ Kazhdan 1991, p. 1095.
  14. ^ Andreev & Lalkov 1996, pp. 168–171.
  15. ^ Fine 1987, pp. 81–82.
  16. ^ Andreev & Lalkov 1996, pp. 171–172.
  17. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 180.
  18. ^ 井上 2005, p. 198.
  19. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 124.
  20. ^ 杉村 1988, p. 80.
  21. ^ 杉村 1988, p. 81.
  22. ^ Andreev & Lalkov 1996, pp. 185.
  23. ^ Andreev & Lalkov 1996, pp. 190–191.
  24. ^ 井上 2005, p. 200.
  25. ^ 根津 2011, p. 92.
  26. ^ へリン 2010, p. 396.

参考文献

  • Андреев (Andreev), Йордан (Jordan); Лалков (Lalkov), Милчо (Milcho) (1996) (ブルガリア語). Българските ханове и царе (The Bulgarian Khans and Tsars). Велико Търново (Veliko Tarnovo): Абагар (Abagar). ISBN (954-427-216-X) 
  • Fine, J. (1987). The Late Medieval Balkans, A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. University of Michigan Press. ISBN (0-472-10079-3). https://archive.org/details/latemedievalbalk00fine 
  • Hendrickx, Benjamin (2015). “Les duchés de l'Empire latin de Constantinople après 1204: origine, structures et statuts [The Duchies of the Latin Empire of Constantinople after 1204. Origin, Structures and Statutes]” (フランス語). Revue belge de philologie et d'histoire 93 (2): 303–328. doi:10.3406/rbph.2015.8837. https://www.persee.fr/doc/rbph_0035-0818_2015_num_93_2_8837. 
  • Kazhdan, A. (1991). The Oxford Dictionary of Byzantium. New York, Oxford: Oxford University Press. ISBN (0-19-504652-8) 
  • 井上, 浩一、栗生沢, 猛夫「ビザンツ 千年帝国のあゆみ」『世界の歴史 11』中央公論社、1998年。 
  • 井上, 浩一「ビザンツ時代」『ギリシア史』桜井万里子(編著)、山川出版社、2005年。 
  • 杉村貞臣「ラスカリス王朝 (ニカイア帝国) の皇帝交替問題」『オリエント』第31巻第2号、日本オリエント学会、1988年、75-91頁。 
  • ヘリン, ジュディス 著、高田良太 訳「ビザンツの多様性」『ビザンツ 驚くべき中世帝国』井上浩一(監訳)、白水社、2010年。 
  • 森安, 達也、今井, 淳子『ブルガリア 風土と歴史』恒文社、1981年。 

関連項目

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